「ありのまま」と「そのまま」=どっちでもいいんじゃない?今から約10年ほど前に某アニメーション映画のヒットにより、「ありのまま」という言葉がブームになった。「ブーム」にはそれに「乗っかる人」と「冷ややかに見て、苦言を呈する人」の2つに別れる傾向がある。もてはやす人が居れば、けなす人も居るという事だ。そこで苦言を呈したのは芸能界の「ご意見番」などと呼ばれている「髪を黄色く染めた中性的な方」だった。この方曰く、「いくら、ありのままがいいと言ったって野菜を畑から抜いて土が付いたまま渡して、ほら、食えって言うのは失礼だ。土を洗って調理しやすくして差し上げるのが本当のありのままだ。」と。つい最近もこのアメブロのオフィシャルである「Pさん」という人もほぼ同じ主旨の事を言っていた。「土が付いたままの野菜はありのままじゃなくて、そのままだ。食材じゃなくて、ただの素材。洗ってきれいにした状態がありのまま。」と。しかし、個人的にこのお二方と私の見解は大きく異なる。何故なら、「土を落とすか(洗うか)?」どうかは「セルフ」でよくないか?と思っているからだ。「(土を)洗いましょうか?」と聞くのはいいだろう。それで「お願いします」と言われれば洗えばいい。しかし、ここで「ある事」が浮上してくる。それは「潔癖症問題」だ。仮に「サービス」として野菜を洗ってあげたとしよう。だが、「潔癖症」の人は多分それが気に入らない。「あー、その洗い方じゃまだ土が付いてる……」とか「その洗い方、全然ダメ!」と内心では思っている。こだわりが強いので。そこで、せっかく洗ってもらっても他人の洗い方は信用していないので、結局自分で気の済むまでゴシゴシと洗い直す事だろう。それなら、最初から「このままで渡しますから、土が気になる人はそこに水道があるので自分で洗って下さいね。」と言う方がよっぽど親切だと思う。それに、少数かもしれないが、「土付き」のままがいい、どうか「土付き」でお願いしますと言う人だって居るかもしれない。「この農園の土は貴重ですから、洗って落とすなんてもったいない。是非土ごと持って帰りたいです。」と「甲子園の土」をありがたがる高校球児の如く「価値」を感じているのだろう。こういう人たちにしてみれば、自分たちの意向を伺わず、良かれと思って洗ってしまうと「あー、何て事をしてくれたんだ!土が付いたままがよかったのに!」とご立腹する可能性もある。

「土付き野菜は土が付いてるからこそ意味がある。土を落としたらスーパーで買うのと同じになる。土付き野菜ならではの魅力がある。土を洗い流すという事は付加価値まで洗い流すという事だ。土を落とすという事は運を落とすという事だ。こちらは土付きのまま渡す。土を落とすなり、洗うなりしたい人はどうぞご自分でよろしくお願いします。洗ってあげても文句を言われるのなら、単なる二度手間だ。水道は使い放題です。土付きのままをご希望の方はその状態でビニール袋に入れて差し上げます。」今日もあなたに幸あれ。続く。