そもそもの前提が違っていると、同じ出来事が起こっても対処法やリアクションにも大きな差が出る。「停電」を例にしてみよう。日本はインフラが整備された国なので、あまり停電は起きない。だから、たまに約1〜2時間程度停電しただけで、特に人が集中している地域ほどパニックになる。パソコンやスマホを始めとした電化製品全般使用できないし、電車や飛行機などの公共交通機関もストップする。多くの店も営業できないし、一般家庭でも支障が出る。場合によっては電力会社にクレームをつけたり、駅員や空港職員に詰め寄る人も居るだろう。そして、人々の話題になり、ニュースや新聞のネタになる。そう、「停電しない」のが「前提」だから。だが、日本の様にインフラが整っていない、いわゆる「後進国」だったらどうだろう。停電なんてしょっちゅう起こるから珍しくも何ともないだろう。一日の中で何回も停電する事もあるだろうし、復旧したと思ったら、また停電。その日のうちに復旧したらまだいい方で、時にはそのまま放置され一週間ぐらい復旧しないなんて事もザラだ。なので、この国の住民は慣れっこになっている。「あぁ、またですか。」とか「はいはい、停電ですね。じゃ、電気使わなくていい事しましょ。」とスパッと気持ちを切り替えてその時出来る事を淡々とこなすだけ。「うわっ!停電だ。どうしよう……」と不安になったり、「いつになったら復旧するんだ!」と電力会社に詰め寄る人ってほとんど居ないはず。奇跡的に丸一日停電しなかった日があると、それが人々の話題になる。「おい、昨日は停電しなかったよな?」と。そして、その事がニュースや新聞に取り上げられる。「昨日は停電しませんでした。」と。こちらでは「停電する」のが「前提」。前提の違いは「普通」や「常識」の違いにも繋がる。どうしても分かり合えない人と遭遇するのは、大事にしている、重要視している「前提」に違いがあるからだ。お互い自分の前提を基準に「普通は」「常識でしょ?」と信じて疑わないので深い溝が出来、それが埋まらない。

「あなたの前提、間違ってますよ。いえ、あなたの方こそその前提はおかしいですよ。どこまで行っても平行線。交わる事なく堂々巡りで水掛け論。これじゃ、らちが明かない。所変われば習慣変わり、人が変われば前提異なる。兎角、世間は世知辛い。」今日もあなたに幸あれ。続く。