私たちの日常で身の回りに起こる出来事に「意味」も「理由」もありませんよ。「起こる」事が「起こる時」に「起こっている」だけですよ。それが紛れもない客観的事実です。でも、どうしても人間という生き物はそこにいちいち「意味」や「理由」を求めてしまうんです。だって、そうしないと不安で落ち着かないから。人間の脳って今自分がどういう状態か分からないのを非常に嫌う。だから、どうにかして「納得」できそうな「意味」や「理由」を付けようとする。まぁ、後付けしたくなるんですね。その他の時と場合によって、「ポジティブ」に後付けした方がスッキリする時は「ポジティブ」な「後付け」になるし、「ネガティブ」に「後付け」した方が納得できるんなら、その「後付け」はとても「ネガティブ」になる。そうやっていつも自分の都合の良い方に「後付け」してるだけ。「後付け」なんだから、何とでも言えるし、どうとでも解釈できる。なので、同じ物を見たり、聞いたりしても見事に百人百様に「答え」が別れる。同じ物の見方をする人って居ないし、同じ音の聞こえ方をする人も居ない。みんな、それぞれ自分にとって一番無理がなくて自然な「後付け」をする。それだけなら問題ない。厄介なのは、その「後付け」を他人に「押し付け」ようとする人が居る所。その人って、自分の「後付け」に相当自信があるんだろうな。だから有無を言わさず従わせたいのかも。それで他人との間に摩擦や軋轢が生まれるんだ。「自分が正しい」と思っている時は相手もそう思っている。そこで自分の感情を100%の勢いでぶつけたら、相手からは200%、300%の勢いで返されるよ。自分の「後付け」だけを力ずくで押し通そうとすると反発されるに決まってる。押しが強い人と対峙すると押し切られて防戦一方になる。そういう時はこちらも少しは抵抗しないと何も言い返せなくなって、言いなりになる。上手く交わすしかないんだよね。これは極論になってしまうけれど、「後付け」の仕方で苦しくなったり、辛くなるのなら、いっその事「解釈しない」に限る。起こる出来事を「あーそうなんだね」とやり過ごすくらいのレベルになれば、いちいち「後付け」で一喜一憂しなくなる。                                           「この世の全ては後付けです。僕らは後付けの世界を生きている。私たちの解釈次第です。出来事はいつまでもどこまでも中立に過ぎません。何の意味も理由もありません。それを私たちが好き勝手にあーだこーだと後付けして良いだとか悪いだとか好きとか嫌いとか正しいとか間違ってるとか言っているだけですよ。みんなが独自のフィルターと集音器を持っていて、自分の都合の良い様に出来事をねじ曲げて解釈するのです。ありのまま、あるがまま、そのまま加工せずに出来事を受け入れている人なんて居ませんよ。後付けしない人なんてきっと皆無でしょうね。その後付けはあなたを有頂天にしますか?それとも、奈落の底に突き落としますか?」今日もあなたに幸あれ。続く。