それは赤く錆びた月の夜でございます。小さな舟をうかべて私はあの場所へ向かうのです。あの人に会いに行くために。二人がこの場所で逢瀬を重ねているのは二人だけの秘密です。目印はこのワダツミの木です。二人以外でこの事を知っているのはワダツミの木だけでございます。堂々と会えない所が何とももどかしい所。しかし、それ故二人の愛は燃えるのです。月明かりに照らされて、ようやくお互いの顔がぼんやりと分かります。これくらいがいいのです。あまりはっきり見え過ぎると見つめ合った時に照れて、顔が赤くなったのが分かってしまいますので。ワダツミの木はいつも温かく迎えて下さいます。根元はうっすらと水に浸かり、威風堂々としておられます。この風格のある木に見守られて、私たちは存分に逢い引きするのです。まだ夜は始まったばかり。今宵も甘美な時間を過ごしましょう。会えない時間が長い分、濃密な時間になります。今は二人を邪魔する野暮な者は居りません。この時だけが貴重なのです。この時だけが二人共素に戻れる瞬間なのです。昼間は少し離れた島で全く別の暮らしをしております。それでも片時も互いの事を忘れる事はありません。日が暮れるのを今か今かと待ちわびています。闇が深くなると、自然に胸が高鳴ります。だって、あの人に会えるのだから……このまま夜が明けずに永遠(とわ)に夜のままだったら私はあなたを独り占めできるのに……でも、そんな事不可能ですよね。それは分かっています。どんなに抵抗した所で夜は明けてしまいます。また次の朝がやって来てしまいます。星は私たちに協力的してくれます。ですが、波だけは大人しくしてくれません。波っていけずですね。                                                             「星もない暗闇でさまよう二人がうたう歌。波よ、もし聞こえるなら、少し今、声をひそめて。私のこの長い髪はあなたを想い、枝となり、大きな花をつけました。ここにいるよ。あなたが迷わぬように。ここにいるよ。あなたが探さぬよう。星に花は照らされて、伸びゆく木は水の上。波よ、もし聞こえるなら、少し今、声をひそめて。優しく揺れた水面に映る赤い花の島。」二人がもし離ればなれになったとしても、ワダツミの木は覚えています。二人が誰よりも愛し合っていた事を。このワダツミの木だけが唯一の証人です。原曲元ちとせ「ワダツミの木」今日もあなたに幸あれ。続く。