あなたは物を見る時、どんな基準(物差し)で見ているだろうか?対世間用の物差しと内的基準の物差しで見ているのではないだろうか?家の中に居る時は自分が全て。どんなに偏っていても、歪んでいようとも自分の物差しで見て、判断している。そして、一歩外に出ると「変な人」と想われない様に「普通」や「常識」といった、この見方をしていれば周囲から浮かずに批判の標的にもならないだろうと世間用の物差しを選んでおきながら、楽しくも何ともなく、むしろ窮屈さを感じてしまっている。世間一般で使われる物差しにはきっちりと目盛りが刻まれていて、その目盛りによって様々なジャッジやマウンティングが日々生み出されている。最近よく耳にする「○○警察」等と言うのもこの「社会常識」という旗を振りかざして目盛りから少しでも外れた者を排除したり、攻撃するうさ晴らしの手段なんだろう。自分の事は棚に上げて。もちろん、どんな世界でも一定のルールは必要だ。全くルールがなければ、それはそれでアナーキー(無秩序)状態になってしまう。しかし何でも細かく物差しで計って決めると柔軟性がなくなり、人と人が不寛容になる。そして融通も利かなくなってしまう。だって物差しの目盛りが全てなのだから。物差しは大まかな使い方でいいと思う。単に自分の価値観と他人の価値観の違いを知る為に使えばいい。物差しは人を縛る道具じゃない。あなたが他人に物差しを当てて、優劣を決める立場だったら、嬉しいだろうか?「はい、セーフ!」「はい、アウト!」と笑いながら残酷な宣言を下せるだろうか?中には快感を味わう人も居るだろうが、後味は悪い気がする。これが物差しを当てられて、他人に自分の価値を決められてしまう方の立場だったら、私なら心がズタズタになってしまうだろう。                                                               「人は人を物差しで計ったり、計られたりしている。目盛りが1ミリでも狂うとことさら大声で騒ぎ立てる。みんな、自分の中の物差しで判断を下すから、その基準に合わないと嫌悪感を抱くんだ。細かすぎる目盛りなどいらないよ。自分の中にある物差しから目盛りを取り除いて、無印の物差しに変えてしまおう。そしてもっと使っていて楽しくなる目盛りを刻み直そう。ケースバイケースで自由に目盛りを変えられる物差しに。」固定式の目盛りから変動式の目盛りへ。今日もあなたに幸あれ。続く。