信念
信念
彼は今日も自転車で通勤していた。
以前はバス通勤であったが、四十も過ぎてくると運動不足もたたってか、急に腹が出っ張ってきた。
そしてついに、一ヶ月前に受診した人間ドックで、腹囲が88センチあることが分かり、見事にメタボ予備軍という診断を下されてしまったのだ。
それで少しでも運動量を増やそうと、先週から思い切って、自転車で通勤することにしたのだった。
しかしさすがに、七月に入ったとたん暑さが増してくると、次第に片道30分の通勤時間は、彼をしんどくさせていった。
特にその日は日差しが強く、出発直後から、彼の頭は暑さのせいで、ぼーっとしていた。
しかし彼はめげずに、自転車を懸命にこぎ進めた。
そしてどうにか、自宅から職場の中間地点にある、コンビニエンスストアの前までたどり着いた。
よし、頑張るぞ。
彼は心の中で自分にそう喝を入れると、そのままペダルを漕ごうとした。
しかし慌てて両手でブレーキをかけ、踏みとどまった。
よく見ると、前方の信号が赤だったのだ。
だが、自分と同じように、自転車を漕ぎ進めていた他のサラリーマンや高校生たちは、皆平然と信号を無視し、横断歩道を渡っていった。
確かに、車や人の通りがほとんどない静かな交差点で、信号を無視しても危険はなさそうだった。
却って、一人じっと信号待ちしている方が、まぬけに見えるほどだ。
しかし彼は決して渡らなかった。
なぜなら彼には、信念があったからだ。
と、彼は俯くと、あの時のことをゆっくりと思い出していた。
それは彼がまだ、入社したての頃―
その頃も彼は、自転車で通勤していた。
そしてある日のこと。
彼は通勤途上で、車や人の通りの少ない交差点に差しかかった。
その時も、他の通行人は、赤信号を無視して、皆いそいそと横断歩道を渡っていった。
しかし彼は考えごとをしていたせいで、他の者に追随せず、そのまま立ち止まって、信号待ちをした。
とその時、一組の母娘連れが通りかかった。
小学生くらいの娘は母の手を引き、信号を無視して、横断歩道を渡ろうとした。
だが母はそれを制して言った。
「信号が赤でしょ? 信号を無視しちゃだめよ。それは法律に違反する悪いことなんだから」
それからおもむろに、彼の方を向いて付け加えた。
「ほら。あのお兄ちゃんを見なさい。ちゃんと信号を守ってるでしょ? 見習わないとね」
すると女の子は「うん」と頷くと、母の指示に従い、そのままじっと信号待ちをした。
それを見て、彼は久しぶりに、自分を誇らしく思った。
そしてその時、ふと誓ったのだ。
自分は子供たちの手本となるよう、これからも絶対に信号無視はするまいと―
以来彼は、信念をまげずに今日まで来たのだった。
彼は額から滴り落ちる汗を拭うと、再び顔を上げた。
すると、いつの間にか信号は青になっていた。
彼は再び、ゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。
そして襲い来る暑さと戦いながら、懸命に自転車を前に進めた。
と、次第に意識が遠のいていきそうになった。
しかし彼はめげずに、前へ前へと進んだ。
それからようやく、職場までもう少しの地点にたどり着いた時―
横断歩道を渡ろうとしたら、いきなり信号が赤になったので、彼は慌てて自転車を停めた。
ふと腕時計を見つめると、いつの間にか始業時間が、あと五分に迫っていた。
その時、彼は思い出した。
今日は自分が、朝礼当番だったことに―
遅刻は絶対に許されない。
絶対に―
思わず彼は、心の中でそう呟いていた。
その時だった。
悪魔が耳元で囁いたのだ。
たまには信号無視してもいいんじゃないの? どうせ車なんて通らないんだし。
信号無視しても誰にも迷惑はかからんよ。
信号を守り続けることに何の意味があるのだ? どうせ誰もお前のことなんかほめやしないぜ。要領よく生きた者が勝ちだよ。
それらの囁きは、じわじわと、彼の焦りを煽っていった。
そしてついに、彼はその囁きに促され、そっとペダルを漕ぎだそうとした。
と、その時―
ビビューン
すぐ目の前を、猛スピードで、白いワゴン車が通り過ぎていった。
その風圧で、彼ははっと、我に返った。
危ないところだった。
もう数秒早く漕ぎだしていたら、間違いなく車に轢かれていた。
彼はほっと胸を撫で下ろすと、額の汗を拭った。
そしてその時気がついた。
信念なんかじゃない。
法律だ。
法律だから、信号は守らなきゃならないのだと―
