終戦記念特別企画「見つめなおそう!戦災の傷跡」(3)
引き続き、岡山市内にある「戦災の傷跡」を巡ってみました。
次はこちらの、岡山市富田町にある「岡山金刀比羅神社」です。
金刀比羅神社は、天正元年(1573年)宇喜多直家入城による城下町整備に
伴ってこの地に創建され、その後岡山城主となった宇喜多秀家が国家安泰
の祈願所とした神社で、金比羅大権現として祀られていましたが、明治2年
5月に現在の社名に改められました。
金刀比羅神社前は、西からの諸大名が参勤交代に江戸に赴く道筋であり、
諸大名や旅人が拝礼し通過していたと伝えられています。
戦災前の建物は本殿、弊殿、拝殿、渡殿、人馬殿などがあり、末社として
稲荷神社、天神社、疫神社、春日神社を擁していました。
昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により、付近一帯の市街は
焼け野原となり、金刀比羅神社も多くの焼夷弾を受けて建物は全焼しました
が、狛犬や燈ろう、手水鉢は、焼夷弾により焼けたり、欠けたりしながらもか
ろうじて残りました。
終戦の翌年には、本殿及び社務所が再建されたといわれ、狛犬や燈ろう、
手水鉢も修復されましたが、残された傷跡がかつての空襲の激しさを今に
伝えています。
こちらが、戦災前の神社の写真です。
その後再建はされたものの、以前のような規模の大きな神社ではなく・・・
今では街の片隅にひっそりとたたずむ、こじんまりとした神社になって
しまいました。
当時のままなのは、焼け跡に残った手水鉢と石灯篭、狛犬だけです。
それらは、戦災の悲惨さを今に伝える、物言わぬ証人となりました。
ご覧の通り、石灯篭は爆撃で上部が欠けています。
そして狛犬の台座には、焼夷弾で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。
当時の惨状が生々しく伝わってきますね。
そして次は、南方にある、南方保育園です。
こちらには、戦時中のままの状態で、今も「れんが塀」が保存されています。
昭和20年(1945年)6月29日未明の岡山大空襲により南方付近も大きな
被害を受け、市立旧南方小学校、幼稚園の建物は全焼しましたが、当時
周りにめぐらされていたれんが塀は焼け残りました。
その後、塀は、校舎改築の際に大部分が取り壊されましたが、残された部分
の焦げ跡が空襲の激しさを今に伝えています。
焼夷弾で黒く焼け焦げた跡が、れんが塀にくっきりと残されています。
こうした貴重な負の遺産は、いつまでも大切に保存されなくてはなりませんね。
(つづく)















