岡山遺跡ものがたり-おとっちゃん(最終回)-
「な、なんでここに?」
徳太郎は驚きのあまり、棒立ちになりました。
すると笹塚は、はははっと、おおらかに笑うと言いました。
「いや。突然驚かせてしまってすまないね。実はたまたま岡山を訪れる機会があってね。それでついでに、あなたにあれをお返ししようと思い、お邪魔したわけなんです」
「あれって?」
徳太郎が上ずった声で問いかけると、笹塚は「おい」と付き添いの男一人に声をかけました。
すると男は、はいと軽く頷き、手にしていた鞄から大きな封筒を取り出すと、丁寧な手つきで笹塚に手渡しました。
「それはまさか?」
徳太郎がそう声を上げると、笹塚は急に表情を硬くし、言いました。
「徳太郎君……だったね。単刀直入に言うよ。この漱石の原稿は君に返す。それに私の監督が行き届かなかったばかりに、一部の部下が勝手なことをしでかしてしまい、君にとんでもない迷惑をかけてしまったようだ。謹んでお詫び申し上げる。この通りだ」
笹塚は、そう一旦言葉を切ると、徳太郎に深々と頭を下げました。
そして再び頭を上げると、更に続けました。
「それでお詫びといってはなんなんだが、私に君のとっちゃんラーメンのブランドを、全国に広めるお手伝いをさせてはもらえないだろうか?」
「そ、それはどういう?」
「君に、無償で資金援助をさせてもらいたいんだ。どうだね? 君がオーナーとなって、全国の主要な都市に、とっちゃんラーメンの店舗を出してみては? ラーメン屋のオーナーとなって成功を収める。それが君の夢だったんだろう? 悪い話ではないと思うがね」
「そ、それは……」
徳太郎は思わず、言葉を詰まらせました。
もしかしたら罠ではなかろうか?
ふとそんな疑念が、頭を過ったからです。
と、二人の会話を側で聞いていた小巻が、突然口を開いて言いました。
「笹塚さん。正直、私らはあなたのこと、信用できんのんよ。今までさんざん私たちのことを追い詰めておきながら、今度は世間から批判を浴び、立場が悪うなったら、急に手の平を返したように甘い言葉で私らを買収しようとする。何が、部下が勝手にやったことよ。そんな子供だまし、私らは信用でけん。これは明らかに、ただのジェスチャーじゃないの? 自分の名誉を回復するためのね。あなたは世間にアピールしたいだけなんよ。決して私らをいじめてるわけじゃのうて、こうして援助してやっとんじゃと。そうなんじゃろう?」
するとそれを聞き、笹塚は苦笑して言いました。
「はははっ。ずいぶんとはっきり物を言うお嬢さんだね。でもそう思われても仕方がないことだ。否は全て、私にあるんだからね。だがこれだけは信じて欲しいんだ。今の私には、ひとかけらの邪心などないと。君たちを騙し、また利用しようなどと、これっぽっちも思ってはいないと。どうかそれだけは信じて欲しい。私はあの小説を読んでようやく気づいたんだ。私も先代のように、自分を恥とは思わず、正々堂々と生きていくべきだったと……」
それを聞くと、徳太郎は思わず声を上げていました。
「恥って…… もしやあなたも?」
すると笹塚は大きく頷き、神妙な面持ちで応えました。
「そう。その通りだ」
「そうだったんか……」
「実は私はこう見えても、まだ五十五歳なんだよ。私も、先代や君のように、遺伝性の病に冒されていたのだ。私も、世に生まれてきた時から、一族から恥とののしられ、うとまれながら成長していった。常に家の中に押し込まれ、決して世間の目にさらされないよう、育てられてきたのだ。それで私は物心ついた時から心に決めていた。いつか一族から全ての財を奪い取り、表ではなく、裏でこの世の一切の物事を自在に操る。そんな絶大な権力を手に入れてやろうと。そして私は望みを叶え、今の力を手に入れることができたのだ。その影で、ここでは言えないような、汚いことをいくつもやってきたよ。だがこの漱石の原稿を読み、かつて私と同じ病に冒されながらも、おとっちゃんと呼ばれ人々に親しまれた人物がいたこと、そして前向きに夢に向かって生きようとする君という人間がいることを知って、気づかされたんだ。病に冒されながらも自分の境遇を決して卑下せず、むしろ前向きに生きていこうとする心。それが真に、選択すべき道だったのだと。それで今になって、せめてこれまで自分がしてきたことへの罪滅ぼしがしたくなったのだ。君の夢を叶える、手助けをすることでね。どうだろう? 徳太郎君。私の申し出を受けてはもらえないだろうか?」
しかし徳太郎は、何の迷いも、惑いもなく応えていました。
「いえ。お断りします。俺は自分自身の力でラーメンの味を極めたい。おとっちゃんというブランドだけではない。名実ともに、人々に認められるラーメンをこの手で作り上げ、世に広めていきたいんです」
するとそれを聞いて、笹塚は静かに微笑み、言いました。
「ふふ。そうかね。分かったよ。残念だが仕方がない。でも安心したよ。君は私と違って、道を踏み外すことはなさそうだ」
そして原稿の入った封筒を、そっとカウンターの上に置くと、その上に名刺を一枚乗せて言いました。
「もし気が変わったら、いつでも連絡をくれ。それでは失礼するよ」
それからくるりと徳太郎たちに背を向けると、伴の二人を従え、そっと店を出ていきました。
その後姿を見つめながら、小巻がそっと徳太郎に囁きました。
「お兄ちゃん、いいの? 後悔してない? あいつを引き留めるなら、今しかないよ」
しかし徳太郎は力強く応えました。
「ああ。するもんか。絶対にな」
「そう。それを聞いて安心した」
小巻はそう言って、微笑みました。
その時―
店の外に出ようとした笹塚が、突然歩を止めると、そっと振り返って言いました。
「あっ、そうそう。次は開店中に来るよ。君のラーメンをぜひ食べてみたいからね」
「ええ。お待ちしています。次に来られた時は、サービスさせてもらいますよ」
徳太郎が元気よくそう応えると、笹塚はにこりと微笑みました。
そして再び前を向き、歩きだすと、そのまま店の外へと出ていきました。
しかし―
その約束が叶うことはありませんでした。
その後、笹塚は岡山駅のホームで、突然襲いかかってきた暴漢に腹を刺され、あえなく亡くなったのです。
襲ったのは―
あの木島でした。
木島は、漱石の原稿を手に入れることに成功したものの、その内容を星乃花たちに公表されてしまったことで笹塚の怒りを買い、職場を解雇されました。
と同時に、彼は妻からも離婚を突きつけられ、家庭も失ってしまいました。
全てを失い、精神がぼろぼろになった木島は、血迷って笹塚に報復をしたのです。
徳太郎と小巻は、翌日のテレビニュースで、その事件のことを知ったのでした。
こうして、徳太郎たちを苛んだ一連の騒動は、憎念が憎念を生む、皮肉な巡り合わせにより、終焉を迎えることとなりました。
その後―
徳太郎のとっちゃんラーメンは順調に繁盛し続け、いつしか人手が足りなくなるくらいまでになっていました。
そんなある日の早朝6時-
徳太郎はいつも通り、旭川沿いの緑道公園で、小巻と一緒にウォーキングをしていました。
「ねえ、待ってよ」
と、後から小巻が、甘ったるい声で呼びかけてきました。
「たく、何だよ? 」
仕方なく立ち止り、後を向くと、小巻が数メートル後方でへたり込んでいました。
「ペース早いよっ。お兄ちゃん」
「だから言うたじゃねえか。無理についてくることはねえって」
徳太郎は一瞬、このまま放っておこうと思いましたが、いつになくしんどそうな彼女の顔を見て、仕方なく様子を見に、引き返すことにしました。
「ちょっと休もうよ、お兄ちゃん。やっぱ私には、久しぶりの一時間はしんどかった」
「仕方ねえな。ほんなら、あそこのベンチで休もうか」
徳太郎は溜息を吐き、前方にあるベンチを見つめました。
と、そこに一人の女性が、俯き加減に座っているのを見つけました。
目を凝らして見ると―
それは星乃花でした。
「えっ? これはどういうことじゃ?」
驚いてそう呟く徳太郎を見て、小巻は微笑むと、そっと囁きました。
「星乃花さん、なんかお兄ちゃんに言いたそうだよ。早う、行ってあげなよ」
「えっ? あ、ああ」
徳太郎は戸惑いながらも、そのままゆっくりと歩を進めました。
その脇で―
「漱石逗留の地」の石碑は、そんな二人を優しく見守るように、今日もひっそりとたたずんでいました。
―了―

