岡山遺跡ものがたり-おとっちゃん(1)-
生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉
漱 石
大学卒業の前年、明治25年(1892)7月、来岡した漱石は亡くなった次兄
直則の妻であった小勝の実家・片岡家(岡山市内山下町138番邸)を訪れ、
1ヶ月ほど滞在している。
その間、7月23日、24日の旭川氾濫による大洪水に見舞われたりしている。
正岡子規に宛てた手紙では、岡山の町の素晴らしさを語り、子規と一緒に
来岡できなかったことを残念がっている。
今回の物語は、ここから始まります―
早朝6時-
徳太郎はいつも通り、旭川沿いの緑道公園で、妹の小巻と一緒にウォーキングをしていました。
真夏日とは言え、あいにくの曇り空だったため、風は意外に爽やかでした。
そのせいか、徳太郎にとって特別な日であったその日も、朝から心穏やかに過ごすことができました。
これなら、力まず、リラックスして一日仕事に臨めそうでした。
今日はいける―
徳太郎は一定のテンポを保ち、きびきびと歩を進めながら、心の中でそう自分に言い聞かせていました。
ところが―
「ねえ、待ってよ」
後ろから小巻が、甘ったるい声で呼びかけてきたので、徳太郎は声に気を取られ、ペースを落としてしまいました。
「たく、何だよ? 」
仕方なく立ち止り、後ろを向くと、小巻が数メートル後方でへたり込んでいました。
「ペース早いよっ。お兄ちゃん」
「だから言うたじゃねえか。無理についてくることはねえって」
徳太郎は一瞬、このまま放っておこうと思いましたが、いつになくしんどそうな彼女の顔を見て、仕方なく様子を見に、引き返すことにしました。
「ちょっと休もうよ、お兄ちゃん。やっぱ私には、一時間はしんどかった」
「仕方ねえな」
徳太郎は溜息を吐き、側にあったベンチへ座ると、一休みすることにしました。
するとそれを見て、小巻もよろよろと起き上がり、ベンチに向かって歩こうとしました。
とその時―
小巻は立ち上がりざま、ふと道の脇に立っていた石碑を見つけると、なぜかそちらの方へと、よろよろと近づいていきました。
そしてそこにひっそりと立っていた、案内板をじっと見つめると、声を上げました。
「何何、夏目漱石、逗留の地? へえーっ、こんなとこに来たことがあるんだ」
「夏目ショウセキ?」
徳太郎はきょとんとして、聞き返しました。
すると小巻は、げらげら笑いながら言いました。
「ソウセキだよ、ソウセキ。お兄ちゃん、まさか知らないの?」
「い、いや。知っとるよ、それくらい……」
学校に、ろくすっぽ行っていなかった徳太郎は、実際はよく分かっていなかったので、つい口ごもってしまいました。
すると小巻は呆れた口調で言いました。
「あーあ、お兄ちゃん。もっと国語を勉強せんといかんよ。お店の名前だって、
『ぶっちぎりラーメン』やなんて、ダサすぎるよ。もうちょっと、風情のある名前の方が絶対ええって」
「またその話か……」
その日は徳太郎にとって、長年の夢であったラーメン屋を、ようや開業できる日でした。
徳太郎は10年間、地元にある老舗のラーメン屋で修業を積んできました。
そして父親から資金援助を受け、ようやく自分の店を持てることとなったのでした。
駅前商店街の一角にある、カウンター席しかない小さな店舗でしたが、徳太郎はまずはこの場所で頑張って顧客を増やし、将来はもっと店舗を広げようと、妹と決意したのでした。
しかし店の名前についてはとうとう、妹と折り合いがつかないままでした。
「ええか? 岩田町の『ダントツラーメン』も、そのインパクトのある名前で成功しとる。うちも『ぶっちぎり』でいく。インパクトの勝負じゃ」
「名前なんかじゃなくって、味と心で勝負せんと。名前なんてその後からついてくるもんよ。それに『ぶっちぎり』なんて名前、うちのラーメンの個性にマッチしとらんよ」
徳太郎にはよく分かっていました。
妹の言うことにも一理あると。
しかし徳太郎は、過去に負った心の傷のせいで、意固地になっていたのです。
徳太郎は小さい頃、生まれつき皺がたくさんある顔つきだったため、周囲から「おっさん」という仇名で呼ばれ、いじめを受けていました。
そのため、いつしか自分を若く見せようという心理が働くようになり、つい古臭い慣習を避けようとする癖がついてしまったのです。
今回のことも、どうしても若者に好まれる店名がいいと考え、『ぶっちぎり』というネーミングにこだわったのでした。
しかし妹にこの場で、そんな心の傷まで突かれたくはない―
徳太郎は焦るあまり、つい大声で怒鳴っていました。
「いちいちうるせえな。どこにも雇ってもらえん、使えんお前を、わしが面倒みちゃるんじゃ。黙って主の言うこと、聞いとったらええやろうが」
「ふん。失敗しても、知らんからね」
小巻はぷいとそっぽを向くと、そのまま黙りこくってしまいました。
と、その時でした。
突然、ポケットに仕舞っていた徳太郎の携帯電話が鳴り響きました。
慌てて電話に出ると、それは母からでした。
「徳? 徳? 大変や。お父ちゃんが今朝倒れて、済生会病院へ運ばれた。も、もう、だめかもしれん……」
(つづく)



