未来の記憶(最終回)
それからどれ位の時が流れたのか?
彼のいた暗闇の世界が、徐々に光で満たされていくと、今度は次第に灰色がかり、やがては白一色へと変貌を遂げた。
これは夢の世界なのか?
それとも現実の世界なのか?
最初、彼には区別がつかなかった。
目覚めた時にも、まだ真っ白な世界が、彼を包み込んでいたからだ。
だが、まるで塗り絵に彩色が施されていくように、白い世界にいる人間や物体が色づき、くっきりと目の前に浮かび上がってくると、彼は初めてここが現実の世界だということを実感した。
と、気がつくと、目の前に若い女がいた。
そして女は彼の顔を見ると、目に涙を浮かべながらも、満面の笑みを浮かべ「よかった。よかった」と何度も声をかけてきた。
ふと傍らを見ると、少女が椅子に腰掛け、一心不乱にスケッチブックに絵を描いていた。
彼には、そんな周囲の光景が、とても不思議に思えてならなかった。
何がどうなったのか?
そして自分が誰なのか?
彼には全く分からなかった。
それから彼は、しげしげと自分の体を眺めてみた。
すると、その時初めて、自分がベッドの上に寝かされていることに気づいた。
ここは病院か?
彼はそれを確かめようと、慌てて起き上がろうとしたが、体はぴくりとも動かなかった。
その時、またしても気づいた。
全身から、すべての感覚が失われていたことに―
「あなたは私とこの子の命を二度も救ってくれた。ありがとう。本当にありがとう。そのせいで、あなたはこんな体になってしまった。だからお願い。これからはずっと、私たちにあなたの面倒を看させて欲しいんです。私、ぜひそうしたいの。と言うより、そうすることが私の使命のような気がするの。だから、いいでしょう?」
女は涙を流しながら懇願した。
しかし彼には女の言っていることが、全く理解できなかった。
それで慌てて過去を思い出そうと試みたが、とたんに激しい頭痛に襲われ、すぐ様断念した。
そこで思い切って女に問い掛けてみた。
「あのう、僕は誰なんです? あなたとはどういう関係だったんですか? 実のところ、全く思い出せなくて」
と、それを聞くや否や、女は唖然として、逆に聞き返してきた。
「思い出せないって? もしかしたら、あなた記憶を?」
「はい」
「何てことなの」
女は絶望の眼差しを一瞬彼に向けると、今度は頭を両手で抱え込み、そのまま俯いてしまった。
しかし暫くして、思い立ったように顔を上げると、彼の右手をしっかりと握りしめ、優しく囁いた。
「いいわ。私と一緒に頑張りましょう。私、協力する。あなたが、記憶を取り戻せるように」
「いえ。いいんです」
だが彼は、咄嗟にそれを断っていた。
彼には分かったのだ。
たとえ記憶をなくしても、たった一つだけ確かなことが。
「記憶は取り戻さないほうがいい。理由は分からないけど、そんな気がするんです」
「でも……」
「今の僕は、とても爽やかな気分なんです。とてつもなく忌まわしい物が、体から抜け落ちたような気がして。だからこのまま人生をリセットしてやり直したい。それで、それでいいんです」
何なのだろう?
こんな体になってしまったのに、絶望もせず、全く悲嘆に暮れない自分という男は―
彼にはそんな自分が理解できなかったが、それが自然なことのように感じた。
「描けたよ、お兄ちゃん」
その時だった。
少女が椅子から降りると、いきなり彼の目の前で、スケッチブックを広げて見せた。
そこには、ベッドに横たわる、自分の絵が描かれていた。
お世辞にも格好いい姿だとは言えないが、彼はその絵を見てはっと気がついた。
たとえ記憶を失い、人生が空白になってしまったとしても、この子がこの白いスケッチブックに絵を描いたように、その空白の人生の上に、まだまだどうとでも好きな色を塗り、好きな絵を描いていけるのだと―
「ねえ、お兄ちゃん。幼稚園の宿題で、明日お父さんの絵を描いて持っていかなくちゃいけないの。だからこの絵を持っていってもいい?」
少女は少し不安そうに顔を強張らせると、首を傾けながら、彼にお伺いを立てた。
「ああ、いいよ」
すると、彼は笑ってそう応えた。
「まあこの子ったら」
女はそう言ってはにかむと、少女の頭を優しく撫でた。
その時、少女の強張っていた顔が、一気にほころんだ。
「あっ、そうだ。ちょっと飲み物を買ってくるね」
女は突然、思い立ったようにそう言うと、いそいそと外へ出ていった。
すると、少女は急に悪戯っぽい笑みを浮かべ、クレヨンでスケッチブックにさらさらと何かをしたためた。
そして、そっとそれを彼の目の前で広げて見せた。
彼は恐る恐る、そのスケッチブックを覗き込んだ。
すると、そこにはこう書かれていた。
「あばよ from キリコ」
―了―

