未来の記憶(2)
キリコと出会ったのは、ちょうど一年前のことだった。
その頃空雅は、三年間勤めていた不動産会社を辞め、次の就職先が見つかるまで、わずかばかりの貯金を生活費に当て、切り詰めた生活を送っていた。
早く次の就職先を見つけなければ、家賃も払えない状態だった。
それで空雅は焦っていた。
しかし希望する会社からは、ことごとくいい返事を貰えず、窮地に追い込まれた空雅は、とうとう鬱状態に陥ってしまった。
そんなある日のことだった。
突然、見も知らぬキリコから電話がかかってきたのは。
「あんた、石月空雅?」
「ええ、そうですが。あなたは?」
「私、キリコ。ねえ、あんたを買ってあげようか?」
「買う?」
「そう。百万円でどう?」
「百万円……」
それが彼女と交わした、初めての会話だった。
だが信じられないことに、得体の知れない謎めいた女からの、突拍子もない申し出にもかかわらず、その翌日、空雅はまるで魔法にかけられたように、彼女に呼び出されるがまま、渋谷の喫茶店へと出向いていたのだった。
こうして店に到着した時、彼女は既にテーブルに着いていて、空雅を待ち受けていた。
横柄に足を組み、煙草をぷかぷかとふかしながら―
と、空雅が戸惑いながらも店に入ると、すぐ様彼女はそれに気づき、軽く右手を挙げてきた。
初対面のはずなのに、それはまるで、空雅のことを知り尽くしているような態度だった。
歳は二十代半ば―
長い黒髪の、目鼻立ちのくっきりした、気の強そうな女だった。
空雅はそんな彼女を、おどおどした目で見つめながら、そっとテーブルに着いた。
と、彼女は吸っていた煙草を灰皿に押し付けてもみ消し、足を組み変えると、ぶっきらぼうに言い放った。
「私、峰岸キリコ」
「峰岸?」
「そう。あんたが勤めていた、峰岸不動産の社長令嬢様よ」
それを聞いた途端、空雅の胸がざわついた。
峰岸―
それは二度と聞きたくない名前だったからだ。
「どういうことだ?」
「あんた会社辞めちまったんだろ? うちの親父の策略で、リストラされたんだよ。リ・ス・ト・ラ。知ってた?」
その通りだった。
勤め始めて三年経った頃から、社長は急に、人一番空雅に厳しく接し始めたのだ。
ノルマを達成できない月は、朝礼時に、大勢の目の前で徹底的に責任を追及された。
それも、他にも達成できていない社員が大勢いたのに、空雅一人だけだ。
そして挙句の果てに、会社が管理しているマンションの、住人同士のトラブル対処といった、営業以外の雑用を、全部空雅に押しつけ始めた。
それは明らかにいじめだった。
その精神的な苦痛に耐え切れず、空雅は泣く泣く辞表を会社に提出したのだった。
「親父は毎年一人、そうやってリストラ候補を決めて、徹底的にいたぶるんだ。退職するまでね」
「ああ、確かに言われる通りさ」
「あんた、お人よしなんだね」
「だけど、それと今日ここに呼ばれたのと、どういう関係があるんだ?」
空雅は、彼女が放つ異様なオーラに圧倒されながらも、むっとした表情で質問した。
「罪滅ぼしよ。罪滅ぼし。聞くところによると、あんた金に困ってんでしょ? だから私に売ってよ。あんたの大事な物を」
「大事な物を売るって? 何を売れってんだ?」
「ふふ。そんなたいそうなことをしろってんじゃないさ。ただ、私とお付き合いしてくれればいいのよ。一緒に映画観たり、食事したりさ。ちょっとの間だけでいいんだ」
「なんで俺なんだ?」
「あんた、イケ面だからさ」
そう言って彼女ははにかむと、ハンドバッグから、一万円札の束を一つ取り出し、目の前にぽんと放り投げた。
すると空雅の手が、自分の意思と関係なく、札束に伸びていた。
「ふふっ、決まりだね」
キリコはそれを見ると、ほくそ笑んで言った。
こうして空雅は不本意ながらも、彼女と付き合い始めることとなった。
週に二、三回、彼女に呼び出されるがままパブやレストランに赴き、一緒に食事をしながら、他愛もない会話に興じた後、ホテルで一夜を過ごす。
そんなことの繰り返しだった。
だが、一定期間肉体的な関係を続けていれば、誰しも情の一つも湧こうものだが、空雅は不思議と、彼女に全く情は湧かなかった。
ただ機械的に事を済ますだけのこと。
そう割り切っていたせいもあるが、彼女はどことなく、自分には踏み込めない、魔の力を宿しているように感じたからだ。
彼女は寂しい人間だった。
定職にも就かず、親から貰う小遣いだけで、日々をぶらぶらと過ごす。
そんな退屈な人生に、いい加減うんざりしていた。
だから空虚で、生を感じられない心を少しでも潤わせようと、自分をおもちゃにして、気を紛らしている―
空雅は最初、キリコとの付き合いを、その程度にしか考えていなかった。
ところが、それは空雅のとんでもない思い違いだったことに、やがて気づかされることとなった。
そう。
キリコの胸の内には、おぞましい謀略が渦巻いていたのだ。
それを知ることとなった運命の日―
その日は、丁度彼女と付き合い始めて一ヵ月後、突如として訪れたのだった。
(つづく)

