未来の記憶(1)
まだ二月だというのに、陽光がじりじりと首筋を焦がし、むずがゆかった。
空雅(くうが)は思わず立ち止まると、狂ったように後頭部の辺りを掻きむしっていた。
すると、伸ばし放題に伸ばしたばさばさの頭髪から、フケが容赦なく飛散した。
だが今となっては、そんなことなど気にもならなかった。
誰が不快な気分になろうと、誰が自分に文句を言ってこようと、空雅にとってそんなことなど、どうでもいいことだった。
なぜなら、彼には見えていたから。
この世界が、今まさに、終末を迎えようとしているのが―
するとその時、突然視力が冴え渡ると、周囲の風景が立体画像のようにくっきりと浮かび上がり、眼前に迫ってきた。
まるで誰かが、自分に押し付けてくるように。
「また始まった」
空雅はそうぼやくと、思わず手の動きを止め、前方をじっと見つめていた。
すると今度は、金縛りにあったように、ぴくりとも体を動かすことができなくなった。
と、やがて目の前に、濃紺のプラダスーツに身を包んだ、小柄な老婦人の姿が現れ、空雅の方へと近づいてきた。
気品漂うその風体から察するに、どこかの企業の、女経営者か役員といったところだろうか?
白髪混じりの髪を丁寧に後で結わえ、歩き方も、そこ等にいる暇を持て余した主婦連中とは違い、きびきびしていた。
と、いつしかその老婦人は、空雅の目前まで迫ってくると、蔑んだ目で見つめてきた。
そのセレブ気取りの態度は鼻についた。
そして彼女は、お前は人間失格だとでも言いたげに怪訝そうに一瞬顔を歪めると、今度はふっと、憐れむような笑みを向け、そのまま空雅の前を通り過ぎていった。
その時だった。
空雅の脳髄に、稲妻のような電撃が走り、頭中がぴりぴりと痺れ始めた。
そしてやがて、その痺れはゆっくりと和らいでいくと、次に脳がじんじんと熱を帯び始めた。
と同時に、空雅の意識はぼんやりと薄らいでいき、次第にセピア色の不鮮明な映像が、頭の中全体に広がっていった。
そしてその映像は、次第に鮮明になっていくと、やがてあの老婦人の姿へと変化していった。
老婦人はネグリジェ姿で、ベッドの上に腰掛けていた。
どうやら就寝していたところを、誰かに起こされたようだった。
とその時、突然彼女の目の前に、二人の男が立ちはだかった。
彼女は驚いてベッドから降りると、何かを抗議するように、男達に向ってわめき始めた。
後姿しか見えないので、男達の顔までは分からなかったが、どうやら知人のようだった。
一人は長髪で、一人は髪を短く刈っていた。
と、互いに激しく口論しあっているうちに、やがて老婦人の興奮状態は頂点に達した。
彼女は、今度は二人の男達を、右手で小突き始めた。
すると突然、長髪の男が、ナイフをさっと衣服の隙間から取り出すと、彼女の胸や腹を数回突いた。
彼女は唖然としたまま、両手を胸に添えると、そのままゆっくりと床にひざまずいた。
と、もう一人の男が両腕で、長髪の男の肩を掴んで制止しようとしたが、長髪の男はそれを振り解き、ひざまずいた彼女の腹に、容赦なく何回も何回もナイフを突き刺した。
次第に彼女の顔は苦痛で歪んでいき、ついには表情が分からないほど、くしゃくしゃになった。
床の上では、彼女の腹部から滴り落ちる血液がゆっくりと結合し、みるみるうちに大きな血溜りに変化していった。
そしていつしか老婦人は、白目を剥いて空を見据えたまま、動かなくなってしまった。
金銭関係のトラブルなのか?
それとも肉親同士の憎しみあいなのか?
空雅には、彼女が殺された理由など分からなかった。
だが少なくとも、今まさに目の前を通り過ぎたあの老婦人の、死が近いことは確かだった。
とその時、空雅の中で、さっきまでの老婦人への嫌悪感が、一転して哀れみへと変化した。
空雅は遠ざかっていく老婦人の背中を、じっと見つめていた。
と、思わず老婦人を引き止め、いずれ訪れる残酷な運命について、知らせてあげたくなる―
それが 唯一、空雅が人間らしい感情を取り戻せる瞬間であった。
「無意味よ、無意味。人間を待ち受けている運命なんて、みんなおんなじなん
だからさ」
その時、キリコの声がした。
と、その声で空雅ははっと、我に返った。
そうだった。
何をやっても無意味なのだ。
運命は変えられない。
たとえ、何人であろうと。
空雅は自分にそう言い聞かせると、老婦人にくるりと背を向け、再び前に向かって歩きだした。
と、またしても胸の辺りに、じんと熱い固まりがうごめくのを感じた。
空雅はそっと右手をその胸に当てると、いとおしむように撫でた。
キリコの肉体はすでにこの世にはないが、彼女の念は、今でも空雅の肉体の中で息づいていた。
空雅は再び立ち止まると、ふと高層ビルを見上げた。
すると青空には、両手を羽根のように広げ、悠悠と空を舞うように落下する、キリコの幻影が浮かび上がった。
扇のように美しく、宙一杯に広がる、綺麗に生え揃ったロングヘア。
そして身にまとった漆黒のダウンジャケットとスカートは、はたはたと風になびき、その様は黒いアゲハチョウが舞うが如く華麗だった。
見ると、その顔には、笑みすら浮かんでいた。
まさに堂々としていて、優美な死に様だった。
空雅は空を見つめたまま、キリコと出会った時のことを、ぼんやりと思い出していた。
(つづく)

