運び屋の女(4)
「そうかい。じゃあ聞くが、あんた、良子さんが今どこに住んでるか知ってるのかい?」
「何っ?」
痛いところをつかれ、睦彦は言葉を詰まらせた。
穂咲にうつつをぬかして、その後の良子のことになど、関心がなかった。
「それ見ろ。全く把握していないようだな。あんたの家の近くだよ。ほら、俺が以前住んでいた、H町のあの家だ。新居を購入して以来、あの家はずっと売りに出してたんだが、なかなか買い手がつかなくてな。だから買い手がつくまでの間、俺が良子さんに使ってもらっているんだ」
「お前って奴は、ぬけぬけと」
それを聞くや否や、睦彦は思わず、右手を強く握り締めていた。
良子には愛情など微塵も残っていなかったはずだが、なぜか嫉妬の炎が、じりじりと胸を焦がしたのだ。
「おいおい。変な勘違いをしてもらっちゃ困るよ。いいか? 良子さんはまだ、あんたのことを愛してるんだ。穂咲っていう娘には気の毒な言い方かもしれんが、今回の事件は、お互いに寄りを戻すいいきっかけじゃないかな? 今度良子さんに会って、ちゃんと話をしろよ。もう一回やり直すんだ。あんたならできるはずだ。いいな? いろいろ疑ってすまなかったが、俺が言いたかったのはそれだけだったんだ。じゃあな」
一力はそう言って、一方的に電話を切った。
それから一週間後―
仕事からの帰宅途中、睦彦はふと八幡公園に立ち寄り、あのベンチの前で一人佇んだ。
春先の公園は、桜の木々にちらほらと花が色づき始め、人気がない場所ながらも、控えめな賑わいで染められていた。
穂咲にはきっぱりと見切りをつけたはずなのに、不思議と、日が経つにつれ彼女への愛しさが募ってきてしまう。
本当にもう彼女はいないのか?
それすら信じられなかった。
彼女の遺体を見たり、葬儀にでも参列すればまだ実感は沸くだろうが、それもままならなかったからだ。
今にも携帯電話に、彼女からメールが入ってくるような気がして、ついいつもの癖で、どこかに腰を落ち着かせたり、立ち上がったりする度に、携帯電話を取り出しては、画面の着信メッセージをチェックしてしまうのだ。
睦彦は、死ぬ前に穂咲が座ったと思われるベンチにそっと腰を下ろすと、彼女の遺留品であるトートバッグをそっと脇に置いてみた。
睦彦は県警の保管庫から、遺族に渡すからと偽って、トートバッグを持ち出したのだった。
睦彦とっては、今や穂咲がこの世に存在していた痕跡を示す証拠品はこれしかない。
睦彦はこのバッグを、いつまでも手元に置いておきたかった。
結局、交通指導課は今回の事件を、ひき逃げ事故として処理した。
一力は、穂咲の裏の仕事については、知らなかったことしておくと言った。
警察に事実を伝えるか否かは、睦彦の判断に委ねるとー
睦彦は恐れていた通りになってしまった自分を哀れんだ。
自分を裏切った穂咲には見切りをつけたつもりだったが、どうしても心は鬱蒼としたままだった。
かと言って、一力に言われるがまま良子に会いにいこうとしたものの、どうも家の側まで来るとその気が失せて、引き返してしまう自分がいた。
睦彦は完全に自分の身の置き所を失ってしまい、永遠の迷路に入り込んでしまったのだ。
そんな自分にできること―
それは、ありのままの事実を警察に伝えることだけだ。
そうすることでしか、今の自分には、心の整理をつけることはできそうにない。
もう保身などどうでもいいのだ。
睦彦はトートバッグを見つめながら、心の中でそう決意した。
そしてバッグを手にすると、そっと立ち上がった。
その時ふと、トイレの入り口に目をやると―
一枚の貼り紙が目についた。
風雨にさらされ、かなり色あせ、くたびれてはいたが、文字だけははっきりと読めた。
それにはこう書かれていた。
「マルチーズ犬を探しています。名前 コウ、 色 白、女性になついていて、すぐに近づいていきます。連絡先 086×××××、佐川良子」
良子だって?
睦彦の目が、その一点に貼りついた。
二人の間に子供はなかった。
だから良子は、寂しさを紛らすために犬を飼っていたのだろう。
考えてみれば不憫な女だった。
だが、もうどうでもいいことだ。
睦彦は心の中でそう呟くと、ベンチに背を向け、前へと歩こうとした。
その時―
「あなた」
背後で声がした。
(つづく)

