時計屋の少女(3)
嘉治郎は「頑張れっ」と声をかけ、すぐさましゃがみ込むと、屋根板の隙間に右手を突っ込み、奥をまさぐった。
するとどうにか、少女の手を探り当てることができた。
嘉治郎はその手を強く握りしめると、急いで引っ張った。
だが、体はぴくりとも動かせない。
更に渾身の力を込めて、引っ張り出そうとしたが、手がすっぽ抜けて尻餅をついてしまった。
そうこうしているうちに、炎が瓦礫の山まで迫ってきた。
と、嘉治郎は焦って、つい口からでまかせを言ってしまった。
「ごめんな。お兄ちゃん、これから父さんや母さんの所へ行ってあげなきゃならないんだ。その後、君を助けにここへ戻って来るからね。それまで頑張るんだよ。いいね?」
心が痛んだ。
しかし、もはや少女を救うてだてはなかった。
すると、少女は弱々しい声で聞き返してきた。
「いつ? いつ戻って来るの?」
「うーん、明日だ。明日の朝には必ず戻って来る。だから待っててくれ。いいな」
すると少女は、必死で瓦礫の中から右手を引きずり出すと、嘉治郎の目の前に差し伸べた。
よく見ると、その手には金属の固まりが握られていた。
何かと思ってさらに目を凝らして見ると、それは懐中時計だった。
「これ、お兄ちゃんに上げる。だから約束だよ。絶対に」
嘉治郎は迷ったが、とりあえずは少女を安心させてやろうと、その時計を受取ることにした。
するとそれを見届けた後、少女は安堵して目を固く閉ざした。
嘉治郎は、そんな少女に向かって、弱々しく答えた。
「分かった。約束するよ」
その言葉が、ただの気休めに過ぎないことは十分承知していた。
しかしそれが、少女にしてやれる精一杯のことだった。
ふと我に返ると、業火は目前まで迫ってきていた。
嘉治郎は慌てて立ち上がると、きびすを返し、無我夢中で走りだした。
燃え広がる炎の合間を縫って、とにかく懸命に走った。
しかし逃げる途中、運悪く低空飛行する敵機と遭遇し、機銃掃射の標的とされてしまった。
その時、兆弾が一発右足首に突き刺さり、嘉治郎は弾き飛ばされるように転倒した。
地面に這いつくばった嘉治郎は、一瞬死を覚悟した。
だが、ふと右手に握りしめたあの懐中時計を見つめると、さっきの少女との約束が脳裏を過ぎった。
そうだ。
約束したのだ―
果たさなくては―
嘉治郎は自分にそう言い聞かせると、よろけながらも立ち上がり、再び死に物狂いで走りだした。
そして我を忘れ、そのまま前へ前へと走り続けた。
こうして気がついた時には、いつの間にか墨田公園にたどり着いていた。
一気に安堵感に包まれた嘉治郎は、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
と、気がつくと、いつしか空襲は終っていて、周囲は静けさに包まれていた。
幸いなことに、嘉治郎は無事に避難していた家族とも、そこで再会することができた。
だが結局、あの少女との約束は果たせなかった。
家族と再会した後、嘉治郎は混乱の中、少女を探しに元来た道を戻ったのだが、焼け野原と化し、様相が一変してしまった街中から、あの場所を特定することは、もはや困難だった。
その後、過去の地図を見つけ出して、あの辺りを調べたところ、あの少女の家がかつて時計店を営んでいたことが分かった。
そして 終戦後―
嘉治郎の家族は稼業であった土建屋を再建し、その後は平穏な日々が続くかと思われた。
しかし嘉治郎は、突然右足を失ってしまうこととなった。
銃弾を受けた右足は、その後の処置が悪かったせいで壊死し始め、医者から切断しなければならないと告げられたのだ。
その後、嘉治郎は足が不自由になったばかりに、さんざん辛酸を舐めさせられることとなった。
家族からは役立たずと蔑まれ、父は稼業を長男の嘉治郎ではなく、弟に継がせてしまった。
そんな薄情な家族とは縁を切ろうと、自らの手で就職口を探すため奔走したものの、どこの企業も、足が不自由なことを理由に、嘉治郎を拒絶した。
結局嘉治郎は、弟の下で細々と働くこと以外、生きる術を見出せなかった。
やがて嘉治郎は、切断された右足の傷がうずく度に、アメリカに対する憎しみを募らせていった。
その後も、嘉治郎を不運な出来事が次々に襲った。
四十半ばにして、ようやく見合いで知り合った鈴子と念願の結婚を果たしたものの、鈴子は娘を出産した後、難産であえなく死去。
成長した娘はアメリカへ留学すると言って、十年前嘉治郎の反対を押し切り、家を飛び出してしまった。
自分の人生を狂わせたアメリカに対し、異常なまでの憎悪を抱く嘉治郎にとって、娘までもがアメリカに奪われるなど、耐えがたい屈辱だった。
嘉治郎は家を出ていく娘の背中に向かって、「親子の縁を切る」と宣告した。
それ以来、娘とは音信不通のままだった―
(つづく)

