時計屋の少女(2)
「社長。その時計は一体なんなんです?」
たい子が恐る恐るそう問いかけると、嘉治郎は複雑な心中をごまかすように、慌てて笑みを取り繕って言った。
「なに、これはな。あの世への手土産だよ」
「何を言ってらっしゃるんですか? 縁起でもない。
社長がいなくなったら、会社の再建はどうなるんですか?
みんな社長を信じて、これからもついていくって言ってるのに」
「おいおい、冗談はよしてくれよ。もう終ったんだよ。何もかもな」
嘉治郎はそう言うと、あははと、空笑いをして見せた。
しかしたい子の目は真剣だった。
「社長、少しは前向きに物事を考えてください。あなた一人の体ではないんですからね。いい加減、意地を張らずに、先生の言うことを聞いて、リハビリに励んだらどうなんですか?」
すると嘉治郎は、突然態度を豹変させ、たい子を怒鳴りつけた。
「少し黙っとってくれんかっ。それに、女房みたいな口の利き方はやめてくれ」
嘉治郎は、言われたくないことをずばりと言われ、かっと頭に血が上ってしまったのだ。
しかしその怒りの矛先は、いつまでもいじいじと煮えきらぬ態度をとってしまう、自分自身に向けられたものでもあった。
と、二人の間に気まずい沈黙が流れた。
嘉治郎は後悔したが、もう後の祭りだった。
なんとか沈黙を破ろうと、嘉治郎はううんと咳払いをした。
そしてたい子に謝罪しようと、ゆっくりと彼女に視線を向けた。
すると、彼女は辛そうにきりりと唇を噛みしめていた。
嘉治郎はそれを見て、慌てて彼女に声をかけようとしたが、それよりも先に、彼女の方が声を発した。
「私、そろそろ失礼します」
そしてそのまま一礼すると、そそくさと部屋を出ていってしまった。
嘉治郎は仕方なく、視線を元に戻すと、薄汚れた天井を見つめながら溜息を吐いた。
そして今度は、手にしていた懐中時計に視線を向けた。
針は動いてはいなかった。
思えば昭和二十年三月十日 午前二時五十分。
あの時から、この時計は止まったままだった。
そして嘉治郎の心の中でも、時はずっと止まったまま、いまだに動かないでいた。
あの当時、嘉治郎は学徒勤労動員として、墨田区にあった弾頭製造工場で働かされていた。
そして三月九日の夜―
嘉治郎は夜勤で工場にいた。
あの日は三月とはいえ、まだちらほらと粉雪が舞い散る、寒い夜であった。
勤務中、突然警戒警報が鳴り、工場の側を流れていた川の堀にある、防空壕へと避難したのは、午後十時三十分頃だった。
だが何事もなく、ほどなくして警報が解除されたので、嘉治郎は一旦工場に戻った。
それから一時も経たぬうちに、突如として、大地を揺るがさんばかりの爆音が、周囲に轟いた。
それを聞き、嘉治郎と同級生たちは、再び外へと飛び出した。
そして夜空を見上げると、漆黒の闇に紛れて、おびただしい数のB29が隊列を組み、北の方角へ向かって飛行していくのが目に入った。
鉛色をした地肌の、継ぎ目が見えるほどの低空飛行だった。
その時周囲を見渡すと、川の対岸に位置する町はすでに紅蓮の炎に包まれ、空は茜色に染まっていた。
その薄紅色の光を浴びて黒光りするB29の機体―
そのおぞましい姿は、嘉治郎の脳裏に、今でも焼きついたままだった。
するとほどなくして、工場の屋根にも炎が広がり始め、同級生たちは教官の号令で、再び工場内へ戻ると、一斉に消火活動を始めた。
ところがその時、嘉治郎は恐怖のあまり金縛りにあってしまい、一人呆然と立ち尽くしたまま、動けなくなってしまった。
やがて火の手は次第に勢いを増していき、気がついた時には、いつしか工場全体が炎に包まれていた。
すると、同級生たちが何人か外へ飛び出してきて、絶望のうめき声を上げながら、四方八方へ遁走し始めた。
その光景を見て、ようやく身の危険をまざまざと感じた嘉治郎も、条件反射のように駆け出していた。
そしてその後はただもう、無我夢中で走り続けた。
家を捨て、命からがら逃げ出す人々の群れに紛れ、嘉治郎も彼らの後に続いた。
だがそんな人々の頭上に、焼夷弾が雨あられのように降り注いだ。
直撃を受け、体ごと粉々に吹き飛ぶ者。
炎に巻かれ、悲鳴を上げながら火だるまになり、焼かれていく者。
そんな人々の間を縫って、嘉治郎は「怖気づくな」と自分に言い聞かせながら、とにかく走った。
走り続けた。
だが家という家は次々と業火に包まれ、ついには地上からも炎の海が迫ってきた。
行く手を炎に遮られ、嘉治郎は立ち止まると、死に物狂いで周囲を見渡した。
そしてまだ倒壊していない家屋を一軒見つけ出すと、慌ててその外壁に身を寄せた。
だが、火の手は勢いを増すばかりだった。
すぐ様家屋の反対側から炎が噴き出すと、支柱がぎしぎしと音を立て、揺らぎ始めた。
もうだめだ。
まさに心の中でそう呟いた時、家屋の二階部分が轟音を上げ、まるで土砂がなだれ落ちるように倒壊した。
嘉治郎は衝撃で吹き飛ばされたが、幸いなことに命は無事だった。
嘉治郎は急いで起き上がると、再び逃げ道を探した。
すると―
足元から、うんうんと、唸る声が聞こえてきた。
何かと思い、瓦礫の山を見回すと、なんと少女が一人、崩れ落ちた屋根板の隙間から頭を突き出して、苦しそうにもがいていた。
おかっぱ頭の、頬のふっくらした、四、五歳くらいの少女だった。
どうやら、一人だけ家に取り残されていたようだ。
それを見た嘉治郎は、慌てて少女の元に駆け寄っていた。
「痛いよ。痛いよ。お兄ちゃん、助けて」
少女は必死で、救いを求めてきた。
(つづく)

