時計屋の少女(1)
エアコンが切れたのだろうか?
いつしか湿気を帯びた生暖かい空気が全身にまとわりつき、嘉治郎は不快感のあまり、固いベッドの上で、右や左へ体を反転させ身悶えていた。
嘉治郎の意識は、まだ半分夢の世界をさ迷っていた。
しかし、どういう訳か、全身の神経だけは冴え渡っていた。
すると今度は、空気が徐々に温度を上げ、いつしか熱を帯びてきたかと思うと、突然発火した。
と、じりじりと焼かれるような激痛が全身に広がっていき、嘉治郎は背筋をぴくりと硬直させると、思わずのけぞっていた。
そして気がついた時には、全身が業火に包まれていた。
その時―
「痛いよ、痛いよ。お兄ちゃん、助けて」
すぐ耳元で、少女の声が聞こえてきた。
その声には聞き覚えがあった。
「お、お前はあの時の……あの時はすまぬ。本当にすまぬ」
嘉治郎は少女のことを思い出すと、とたんに心の中で何度もそう呟き、許しを請うていた。
「助けて。助けて」
しかし少女はひたすら、嘉治郎に訴え続けた。
だが嘉治郎には、ただただ「すまぬ、すまぬ」と謝り続けることしかできなかった。
と、嘉治郎が必死で謝り続けているうちに、やがてその声はかすれ、次第に聞こえなくなっていった。
「社長、社長、大丈夫ですか? 社長」
その声と入れ替わるように、今度は別の女の呼ぶ声がした。
その時嘉治郎は、ようやく自分が悪夢から目覚めようとしていることに気づいた。
二度と悪夢の世界に引きずりこまれまいと、嘉治郎は瞼を一気にこじ開けた。
すると目の前には、たい子のふくよかな顔があった。
神妙な面持ちではあったが、その顔を見たとたん、自然に嘉治郎の口から、安堵の吐息が洩れた。
「ああ、たい子さん」
「社長、大丈夫ですか? 随分うなされていたので、心配しましたよ」
たい子はそう言うと、ハンカチで額の汗を、そっと拭ってくれた。
見ると病室の窓から、白い陽光が差し込んでいる。
今日も外はかなり暑そうだった。
「たい子さん、クーラー切れてるんかい?」
「ええ、かなり部屋が冷えてたんで、体に毒かと思って切りました。つけますか?」
「ああ、いや。いいんだ」
なるほど。
さっきの悪夢はこの暑さのせいだったのか。
嘉治郎は、いらぬ世話を焼いてくれたたい子に、つい一瞬仏頂面をむけてしまった。
しかし、慌てて笑顔を取り繕った。
思えば、たい子には面倒をかけっぱなしであった。
こうして足を向けて寝ているのでさえ、申し訳ないほどだ―
嘉治郎は今年で七十八歳を迎える。
亡き弟の後を継ぎ、小さな土建屋をきりもみして、はや二十年が経った。
だが元々経営者の資質などないうえに、昨今のこの不景気だ。
経営は十年ほど前から徐々に傾き始め、とうとう銀行に多額の負債を抱えたまま、会社を倒産させてしまった。
そのうえ、こんな大変な時期に、こともあろうに脳梗塞で倒れてしまい、今や半身不随の身となってしまつた。
だから破産申請の手続きや、不動産の売却とかいった会社の後始末は、全て経理担当のたい子に任せきりだった。
おまけに独り身で、世話をしてくれる親族など誰一人いない、こんな自分の身の回りの世話までしてくれていた。
たい子がいなかったらどうなっていたことだろうか?
考えただけでもぞっとした。
たい子は今年、五十七歳を迎える、勤続三十年のベテランだ。
世話好きな性格のうえ、公認会計士の資格まで持つ、やり手のキャリアウーマンで、会社の大黒柱的存在だったのだ。
「すまんな、たい子さん。で、手続きは順調かな?」
嘉治郎がかすれた声で問いかけると、たい子は痛々しい表情で「ええ」と軽く頷き、それ以上多くを語りたくはないといった風に黙々と、手に下げていた紙袋の中から、下着やらお茶のペットボトルなど、頼まれていた買い物の品をベッドの脇にある棚に収納し始めた。
そして一通り作業を終えると、突然「あっ、そうそう」と思い出したように、椅子の上に置いてあったハンドバッグに手をかけた。
そして中をまさぐると、銀色の古めかしい懐中時計を取り出して、嘉治郎に差し出した。
「はい、社長。このあいだ頼まれてた例の時計、持ってきましたよ。探すのに苦労したんですから。ご自宅中の箪笥の中を隅々までひっかき回して、やっと見つけ出したんですよ」
「ああ、ありがとう」
嘉治郎は、その懐中時計をそっと受け取った。
そして、まるでおぞましい物を見るかのように顔をしかめ、じっと眺めた。
(つづく)

