closet (2)
来夢は戸惑った。
空耳だろうか?
そう思ったが次の瞬間、外からとんとんと、襖を叩く音が響き渡ると、臓物が揺さぶられ、来夢はこれが現実の出来事だと確信した。
「なあ来夢。早く昼飯食って、家に帰ろう。遅くなったら道が混むぞ。だから早く出てこいや」
来夢はおどおどしながらも、その声に促され、つい右手で襖の縁を掴んでいた。
そして思い切って開けようと試みた。
しかし手が震えて、そのまま固まってしまった。
間違いなく、外から聞こえてきたのは父の声だ。
だが父は死んだ。
こんな所にいるはずがなかった。
だとしたら、外は黄泉の世界かもしれない。
とすると、もし襖を開けてしまったら、自分も黄泉の世界に引きずり込まれてしまうかもしれない。
来夢の胸中に、そんな不安がよぎったのだ。
するとその時、別の声が外から響いてきた。
「もういいよ。そっとしておいてやんな。うちは全然構わんからよ」
それは祖母の声だった。
「お袋、甘やかさんでくれ」
「いいからいいから。私に任せとき。なあ、来夢。どうしても帰りたくないんやったらよ。暫く、ばあちゃんちにおったらええよ」
祖母がそう優しく語りかけると、父は呆れて「勝手にしろ」と言い捨て、そのまま遠ざかっていった。
それは気配で感じ取れた。
するとその後、突然部屋が静けさに包まれた。
周囲に誰もいなくなった―
そう確信した来夢は、ようやく右手を動かすことができるようになった。
それで来夢は、そっと深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、そのままゆっくりと襖を開いてみた。
そして隙間から外を眺めると、ほっと安堵の息を吐いた。
目の前に広がったのは、引越しの荷物が雑然と置かれた、元の部屋だった。
夢だったんだ―
来夢はその時そう思った。
否、そう自分に言い聞かせた。
そして、もう一度それを確かめたくなり、再び襖をそっと閉めてみた。
なんでそんな気になったのか、自分でも分からなかった。
ただ恐怖心から解放されたとたん、心に余裕が生まれたのは確かだった。
そして再び暗闇に身を投じた来夢は、目を閉ざすと、そのまま身を縮めて自分の殻に閉じこもった。
すると―
「来夢、来夢。今日はちゃんと学校に行きなさいよ。逃げてばかりじゃだめ。ろくな大人になれんよ」
今度は懐かしい母の声が響いてきた。
すると来夢は、再びはっと目を開いていた。
そしてゆっくりと、昔のことを思い出した。
小学生の頃だった。
クラスのいじめっこに標的にされた来夢は、死ぬほど学校に行くのが嫌だった時期があった。
その時分は、朝起きたら押入れに閉じこもり、内側から手で襖を押さえつけると、「行きたくない、行きたくない」と、よくだだをこねていたものだった。
そのあまりの頑固さに、やがて母は説得するのを諦め、暫く登校拒否の日々が続いた。
思えばあの頃の来夢は、行く先が見えない闇の中を、ずっとさ迷い歩いているようだった。
生きているのか、死んでいるのかも分からない―
そんな曖昧な自分の存在が、ただただうっとおしかった。
「来夢。行こうよ、学校に」
その時、また外から母が呼びかけてきた。
すると、ふと自分の中に、あの頃のひねくれた性分が甦った。
「もうほっといてくれよ。俺のことなんかっ」
来夢は思わず、母に向かってそう叫んでいた。
しまったー
そう悔んだ時は手遅れだった。
とたんに再び、周囲から雑音が消え去り、続けて静けさが、自分に重くのしかかってきた。
来夢は恐る恐る右手を伸ばし、そっと襖の縁を掴むと、そのままゆっくりと開けてみた。
すると、目の前に広がったのは、またしても元いた、アパートの部屋だった。
来夢は溜息を吐くと、そっと押入れから外へ出た。
そして荷物の前に座り込み、部屋の中をぼんやりと見つめていると、あることに気がついた。さっきは突然、不思議な出来事が起きたので、驚きのあまりすぐには思い出せなかったが、神戸の震災が起きた前日、来夢は父と一緒に、姫路に住んでいた祖母の家に遊びにいっていたのだ。
だが帰り際、来夢は家には帰りたくないと、押入れに隠れてだだをこねた。
それで父は来夢を見捨て、一人神戸の家に帰ってしまった。
おかげで来夢は、震災で命を落とさずに済んだが、両親は二人とも犠牲になってしまったのだった。
そしてさっき自分が体験したのは、まさにあの日の出来事の再現だったのだ。
だとしたら、にわかには信じがたいが、自分はあの時間にタイムスリップしたのかもしれない。
ということは―
もう一度タイムスリップしよう。
地震が起きる前日に。
そして父と母に、翌日地震が起きることを伝えるのだ。
そうすれば二人は助かる。
来夢はそう決心した。
(つづく)

