白い炎-さよなら、かかし先生-(54)
直義は無言のまま頷いた。
するとスマは、そんな直義の手をいきなり握ると、そっと玄関まで引っ張っていった。
そして「車が待っとるけえ。はよう」と言いながら、先に土間に下り草履を履くと、玄関の戸を開け、外へ出た。
見ると、スマが呼んだのだろう。
門の前に、黒塗りのタクシーが一台停まっていた。
と、胸の中にようやく焦りが芽生え、直義もおぼつかない足取りで土間に下り靴を履くと、スマの後を追うように外へと出た。
そしてふらつきながらも、タクシーへと近づいていった。
すると、先に乗車しかけていたスマが、そんな直義の手をぎゅっと掴んで、後部座席へと引っ張り込んだ。
それからドアが閉まったのを確認すると「済生会病院まで、お願い」と、運転手に告げた。
すると運転手は無言のまま、ゆっくりと車を発進させた―
その時、直義はふと思った。
このまま車は、見馴れた愛しい風景の中を走っていくのだと。
日比野先生、それに香と過ごした、思い出の空間の狭間を。
と、直義は耐えられず、思わず目を伏せていた。
光と緑が溢れる、あの美しい風景を目の当たりにしたら、辛い現実を受け入れられなくなってしまう。
事件が起きたのは、ほんの束の間の悪い夢に過ぎなかった。
日比野先生、そして香がいた、あの幸福な空間は、もしかしたらこれからもずっと続いていくのではないだろうかと、錯覚してしまうに違いない。
そんなことを思っていると、再び悲しみがじわじわと直義の胸に広がっていき、目から涙が溢れ出した。
すると、そんな直義の背中をさすりながら、スマが言った。
「ナオ、ナオ。ええか? 先生はまだ大丈夫かもしれん。いや、香君じゃて、本当に亡くなったかどうは分からんよ。あくまでご近所から聞いた話なんじゃけえ。希望は捨てたらいけん。神様にお祈りしような。二人が無事でありますように」
直義はその言葉に、一瞬救いを見出した。
そして思わず大きく頷くと、両手を組んで神に祈った。
その時の直義には、たとえスマの発した言葉であれ、ほんの微かな希望にでもすがる以外になかったのだ。
神様、一生に一度のお願いを聞いてください。
どうか、どうか日比野先生と香が、無事でありますように。
直義は固く目を閉ざし、両手を組んだまま、ずっと祈り続けた。
そして―
暫くしてタクシーが停止すると、そのまま動かなくなったので、直義は恐る恐るを目を開いた。
見ると、いつしかタクシーは、病院の玄関前に到着していた。
スマは代金の精算を済ませると、そっと直義の背中を外へ押し出し、下車させた。
そして自分も車から降りると、直義の右手を握り、そのまま病院の中へと連れて入った。
「ここに座っとりい」
ロビーに差し掛かった時、スマはそう言うと、一旦おぼつかない足取りの直義を長椅子に座らせ、一人いそいそと受付へ歩いていった。
そして女性の事務員に話しかけると、暫くの間、彼女の説明を聞いていた。
直義は不安な面持ちで、じっとその様子を見守っていた。
どうか二人が無事でありますようにと、心の中で祈りを捧げながら。
だがその祈りは、通じなかった。
事務員の説明を聞き終えたスマは、神妙な面持ちで直義の方を振り返ると、ゆっくりと近づいてきた。
そしてすぐ側まで来ると、そっと囁いた。
「ナオ、行こう。香君とお別れをしに」
直義はその言葉に、力なく立ち上がった。
その時は、ある程度の覚悟はできていたせいか、なぜかその事実をすんなりと受け入れることができたのだ。
そして、受付の事務員もこちらにやって来ると、「どうぞ、こちらへ」と、直義とスマをエレーベーターホールへ案内した。
すると三人が到着したのとほぼ同時に、ちょうど四基あるエレベーターのうち一基の扉が開いたので、二人に乗るよう促すと、自分も乗り込み、地下二階のボタンを押した。
と、エレベーターはゆっくりと降下していき、やがて地下二階へと到着した。
それから、チンと無機質なベルの音と共に、扉がゆっくりと開くと、事務員が先に下り、二人を薄暗い廊下の奥へと案内した。
そして「霊安室」と書かれたドアの前で立ち止まると、コンコンとノックした。
すると奥から「どうぞ」と、か細い女性の声が返ってくると、事務員はゆっくりとドアを開けた。
「失礼致します。
ご子息のお友達の方が、ご挨拶なされたいそうですので、
お連れしました」
事務員がそう言って、中の女性にお辞儀をすると、「どうぞ、お入りください」と声が返って来たので、スマは直義の手を引いて、そっと中へと入ると、丁寧に頭を下げた。
見るとそこには、香の母親が、目を真っ赤に泣きはらして立っていた。
そして部屋の中央には、顔を白布で覆われた、香の遺体がベッドの上で、仰向けに横たわっていた。
その枕元には小さな祭壇が設置され、線香が炊かれていた。
その煙が天井に立ちのぼっていくのを見た時、直義は改めて実感した。
香は本当に死んでしまったのだと―
その時、香の母親が遺体に近寄ると、そっと顔の白布を捲り、涙ぐみながら言った。
「顔を見てやって下さい。すごく安らかでしょう?」
言われた通り、恐る恐る顔を見ると、確かにその顔は安らかで、うっすらと微笑んでいるようにも見えた。
あの、いつも直義に見せていた、憎らしげな笑みとは正反対の、それはまるで天使のような笑みだった。
直義は堪え切れず、恐る恐る遺体に近づくと、つい香に話しかけていた。
「香、どげえしたんじゃ? そんな顔、お前らしうないで。香よ……」
もうあの時の香は、二度とは戻ってこない。
その現実を、神様からとことん思い知らされたような気がして、悔しさのあまり、胸が張り裂けそうだった。
するとスマが思わず近寄ってきて、そっと耳元で囁いた。
「ナオ、先生が助かりそうじゃて。さっき事務の女の人が言うとった。香君はそれで安心して笑うとるんよ、そげえなこと、言うたったらいけん。言うたったら……」
その言葉を聞くと、直義は思わず、わーっと香の胸にすがって泣き伏していた。
香を殺された悔しさ―
香を失った悲しみ―
そして先生の無事を聞いての安堵感―
あらゆる感情が胸の中に渦巻いて、自分ではとても整理がつかなかった。
ただただ泣くことしか、直義にはできなかったのだ。
「香、お前らしいで。かっこええ最期じゃ。お前は先生を守った。守ったんじゃ。わしにできんかったことを、お前はやり遂げたんじゃ。お前の父さん、きっと無実じゃいうことが分かって、帰ってこれる。お母さんはきっと、父さんが守ってくれるじゃろう。じゃから、心配せんでええよ。もう心配せんでええ」
直義は泣きじゃくりながら、懸命に香に話しかけた―
(つづく)

