白い炎-さよなら、かかし先生-(30)
すると、すでに自席についていた日比野先生が、直義の姿を見るや否や、「ここよ、ここ」と右手を上げて手招きした。
「ど、どうも」
直義はどぎまぎしながらお辞儀をすると、ゆっくりと先生の側まで歩いていった。
先生はそんな直義の姿を見て、くすっと笑って言った。
「直義君。まあ、そう緊張しないで。実は先生に考えがあるんだ。そこで相談なんだけど、今度の土曜日に、先生の家で一緒にかかしを作らない? 先生はあなたの味方だから。いいわね?」
突然の申し出に、直義の心臓の鼓動が一気に高まった。
名目はどうであれ、土曜の午後を、先生と二人きりで過ごせるのだ。
これはもう、デートと言ってもいいだろう。
直義は嬉しさのあまり、つい勝負のことを忘れ「分かりましたっ」と、大きな返事をしていた。
「おほほっ、直義君。無事に復活したわね。頼もしい返事よ。先生、期待してるわ。じゃあ、頑張ろうね」
先生は嬉しそうに笑いながらそう言うと、優しく直義の右手を握って揺さぶった。
ところがその翌日―
日比野先生は突然、学校を休んでしまった。
夏風邪をひいてしまったとのことだった。
その日は今でも忘れない―
まだ七月の中旬だと言うのに、まるで真夏日のように、かんかん照りの日だった。
直義は心配になり、休憩時間にこっそりと職員室に寄って、宮永先生に日比野先生の容態について尋ねた。
だが返ってきた答えは「分からん」の一言だけだったので、直義は益々不安にかられてしまった。
勝負はあさってだというのに、かかしの段取りは大丈夫なのだろうか?
頭の中を、そんな疑念が渦を巻いた。
しかし今は日比野先生を信用するしかなかった。
落ち着け、落ち着け。
直義は心の中でそう自分に言い聞かせながら教室に戻ると、再び授業に臨んだ。
だが、どうしても不安は解消されず、やはり授業に集中することはできなかった。
そして次第に、一刻も早く先生の家へ見舞いにいき、容態を確かめたいとう欲求にかられていった。
そんな直義の焦りを見抜いた香は、休憩時間になると、そっと近寄ってきてからかった。
「おい。頼みの綱の先生が来られなくなっても、あさっての勝負は予定通り決行だからな。絶対に逃げたりするなよな」
「当たり前じゃ」
直義は虚勢を張ってそう答えたが、やはりその声に、力はこもっていなかった。
そんな自分自身にも苛立ちを覚え、直義は夕方になって、校内に終業のチャイムが鳴り響くや否や、一目散に学校を飛び出していた。
そして昨日、先生がメモに書いてくれた地図を頼りに自転車を走らせ、村境にある国道四八0号線の方向へと急いだ。
先生の住んでいる下宿は、村からその国道へと下る坂道の、途中にあった。
それは校長が、神保町農協に勤める次男の重盛が結婚した時のために、夫婦で住めるようにと建ててやった物件だった。
ところが三十半ばになっても、重盛は一向にいい相手に恵まれず、いつまでたっても独り身だったので、校長はこの家を、暫く日比野先生に提供することにしたのだった。
直義は、その二階建てで、白いモダンな先生の家を見つけると、そっと表に自転車を停めた。
そしてゆっくりと地面に降り立つと、門をくぐって敷地内へ足を踏み込ませ、窓ごしに家の中を覗き見ようとした。
しかし窓には、薄いピンク色のカーテンがかかっていて、中の様子は分からなかった。
やむを得ず、直義は玄関の側まで近づくと、深呼吸して気を落ち着かせ、思い切って声をかけた。
「ご、ごめんください。な、永田直義です。先生、おってですか? 先生?」
しかし家の中はしんと静まり返ったままで、返事は返ってはこなかった。
次に直義は、思い切ってドアを叩いてみたが、やはり返事はなかった。
その静けさが、直義の不安を益々増幅させていった。
そしてついに直義は、苦しみのあまり、胸が張り裂けそうになった。
一体、どうしたというのだ?
もしかすると先生は、容態が悪化して、入院でもしてしまったのだろうか?
そんな最悪の事態が、次々に頭の中をよぎり始め、直義はとうとう逃げ出すように外へと飛び出していた。
そして、表に停めてあった自転車にゆっくりと跨ると、しょぼくれながらペダルを漕ぎ、家路についた。
(つづく)

