白い炎-さよなら、かかし先生-(15)
6.
その翌日から、予期していた通り、香はその狂暴性をあらわにしていった。
こうして平和だった仁美小学校は、どす黒い不穏な空気で覆われることとなった。
多くの男子生徒が、廊下ですれ違いざま、香と目があっただけで「人を馬鹿にした」と因縁をつけられ、便所に連れ込まれたり、校舎の裏に呼び出されては殴られた。
だがそのことを、教師や親に告げ口する者はいなかった。
なぜなら、皆ナイフで「殺す」と脅されていたからだ。
しかも狂気に満ちた香の目は尋常ではなく、真に迫るものがあったから、誰もがその脅しを真に受けていたのだ。
直義が、校内でこのような事態が勃発していることを知ったのは、ある日ヤン坊を、香に暴行を受けたことを日比野先生に告げるよう、説得した時だった。
その日直義は、帰宅途中に、ヤン坊の実家が所有するビニールハウスで、彼と落ち合う約束をしていた。
教室内では、常に香の監視の目が光っていたからだ。
「ええか? ヤン坊。おめえはちっとも悪いことなんかしとらんのじゃけえ、泣き寝入りすることはねえ。このままじゃと、おめえは一生負け犬のままじゃ。何も怯えることやこなかろうが。あいつじゃて、わしらと同じ小学生なんじゃ。日比野先生なら、きっと力になってくれる。何だったら、俺が話してやってもええ。とにかく事実を先生にだけは話そうや」
だが直義の説得に、即座に激しく首を横に振ると、ヤン坊は懇願するように訴えた。
「おえん、おえん。そげえなことをしたら、ほんまに奴に殺されてしまうで。ええか? 直君。奴はな、ほんまもののやくざじゃ」
「やくざ?」
「そうじゃ。これはな、わしと同じように脅されて、いやいやあいつの子分になってしもうた渉君が、こっそり打ち明けてくれたことじゃが、あいつは全校生徒を一人一人観察して、使えそうな奴を選抜しとるそうじゃ。そしてわざと言いがかりをつけて便所へ連れ込んだり、校舎の裏に呼び出しては、どれほどの力があるんか、テストしとるんじゃ。そして眼鏡にかのうたもんは、あいつの子分にさせられるんじゃ」
「な、何じゃと? ほんなら、あいつは子分をたくさん集めとるんか? 一体あいつは何をしようと企んどるんじゃ」
「分からん。じゃが、いつか父ちゃんが教えてくれたんじゃが、町から笠井組いうやくざがやって来て、村の近くに事務所を建てたそうじゃ。渉君は言うとった。あいつは笠井組の将来を担う、兵隊を発掘しとるんじゃないかって。そしてあいつは、笠井組のスカウトマンじゃないかって」
「スカウトマン? プロ野球だけじゃのうて、やくざにもスカウトマンがおるんか?」
「知らんわ、そげえなこと。じゃが、これだけは確かじゃ。あいつはほんまものじゃ。危険すぎる奴じゃ。そういうことじゃけえ、直君。このことにあんまり首を突っ込まん方がええよ。ほんなら、俺はもう行くけえ」
そう言うと、ヤン坊はこそこそと外の様子を窺いながら、慌ててビニールハウスを飛び出していった。
ヤン坊の話を聞き、直義は暫しの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
その時直義は、何もかもががらがらと、音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
この平和な村が、世界のすべてだと思い込み、生き続けてきた自分。
だがしょせん自分は、井の中の蛙に過ぎなかったことを痛感させられたのだ。
村の外には。自分の想像をはるかに超えた世界があった。
直義は思わずうな垂れると、唇をかみしめた。
すると今度は、次第に全身が、言いようのない孤独感に覆われていった。
ヤン坊や渉、そして全てのクラスメートの心が、自分から離れていこうとしているからではなかった。
力ある者が全てを制する。
この非情なセオリーを目の当たりにして、今までちやほやされて生きてきた自分の無力さ、愚かさを突きつけられ、現実の世界から取り残されていくような気がしたからだ。
そしてその日の晩―
直義は夕食時も、じっと箸に手をつけないまま、物思いに耽っていた。
こんな自分が、果たして東京などという未知の大海に乗り出し、うまくやっていけるのだろうか?
今度はそんな不安が、直義の胸の中に、どんよりとした暗雲のように立ち込めていたのだ。
そんな直義を見て、作造は心配になり声をかけてきた。
「一体どうしたいうんじゃ? まるで死人のようじゃぞ。青白い顔しくさってから。熱でもあるんかい?」
直義はその声に、はっと我に返ると、わざとらしく作造に質問をぶつけてみた。
「父さん。ちょっと聞くけえど、笠井組いうやくざが、村の近くに事務所建てたいうんはほんまか?」
それを聞いて作造は一瞬顔色を変えたが、慌てて冷静を装うと、落ち着き払って答えた。
「な、何や。そげえなことを心配しとったんか。そんなんはデマじゃ。子供の心配することじゃねえ。安心して勉強せえや。ええな?」
だが逆に、そんな父の態度を見て、ますます直義は不信感を募らせていった。
「もうええわ」
直義は吐き捨てるようにそう言うと、夕食を食べ残したまま、そそくさと部屋に閉じこもった。
するとその後、突然スマが、こっそりと部屋に忍び入ってきた。
そして小声で告げた。
「さっきはの話じゃけえどな。父さんの言うたことは嘘じゃ。国道沿いに、最近建設会社の事務所が建ったろう? 実はあれが、笠井組の事務所じゃ。あの辺通ったら危ないで。気いつけるこっちゃな。ははははっ」
スマは直義を不安がらせようと、意地悪でわざと真実を告げたのだった。
スマはこんな風に、しょせん直義は作造に告げ口などできまいとたかをくくり、陰でこっそり母親らしからぬ態度を取って、直義をからかっていたのだ。
「出てけっ」
直義はむしゃくしゃして、思わずスマを怒鳴りつけていた。
しかしスマはそんな態度など意に介さず、にやにやと笑いながら、いそいそと部屋を立ち去っていった。
(つづく)

