Noah(24)
なるほど。
死期が近いと悟った祖母は、親しかったこのあやめに、この箱を託していたに違いない。
そして舞子が訪れた時、密かに渡して欲しいと、頼んでおいたのだろう。
ところがあやめの痴呆が進んでくると、不安になった祖母は、舞子にこのことを知らせておこうと、もう一通手紙を書こうとしたのだろう。
それが舞子が持ち帰った手紙なのだ。
ところが祖母は、書き終える前に息絶えてしまった。
矢野はようやくそのことに気づくと、思わず呟いた。
「こうしてはいられない。急いで舞子に、このことを伝えなくては」
そして箱を右腕に抱えると、慌てて施設を飛び出し、車に乗り込んだ。
その日、聖園養護院の教会で、舞子と良介は神父の仲介で、結婚の誓いを立てた。
式には、施設の子供たち全員が参列し、二人を祝福した。
簡素な結婚式だったが、舞子には贅沢すぎるくらいだった。
白いドレスに身を包み、教会の祭壇を前に、大勢の人々から祝福を受け、良介と添い遂げる。
絶対に味わうことができないと思っていた幸福を、今舞子は思い切り噛みしめていたのだった。
そして誓いが終わった後、二人はそっと口づけを交わした。
それを見た子供たちは、まるで自分のことのように喜び、二人に拍手喝采を浴びせた。
こうして滞りなく式が終わると、子供たちは一旦自室にこもり、再びがやがやと、旅行鞄を提げて出てきた。
そして外へと飛び出し、玄関の前に整列すると、舞子と良介を待った。
すると暫くして、「おまちどお」と、衣装替えを済ませた舞子と良介が、玄関から外へ出てきた。
これから全員で、ハワイに旅立つことになっていたのだ。
「すごいな。舞ちゃんのおかげで、学校休んでハワイ旅行に行けるなんてさ。
外国なんて、一生行けないと思ってたのに」
琢己がそう言って、大はしゃぎした。
それを見て「大げさだよ」と、真理子が呆れ顔で言った。
神父はそんな子供たちを見ながら、にこやかに話し掛けた。
「皆。こうして旅行ができるのは、足長にいちゃんという、奇特な方が旅行券を寄贈して下さったおかげなのだよ。その方に心から感謝するのだ。いいね? それから私は留守番をするが、舞子さんを私の代わりだと思って、しっかり言うことを聞くんだぞ。分かったね?」
「はーい」
子供たちが嬉しそうに返事をした。
「ありがとう、お兄さん」
その時舞子はふと、矢野の笑顔を思い浮かべ、感謝の言葉を囁いていた。
それは舞子と良介が式を挙げることを決めた翌日のことだった。
封書が一通届き、中を開けてみると、舞子と良介、それに子供たち全員の、ハワイへの旅行券とホテルの宿泊券が入っていたのだ。
そして封書の差出人は「矢野」だった。
舞子はもう一度彼に会って、一言お礼が言いたかった。
彼と血の繋がりがあろうがなかろうが、もはやそんなことはどうでもよかった。
彼は自分のことを「妹」と呼んでくれた。
それだけで、舞子は満足だった。
しかし彼は一体、何者なのだろう?
そして、今どこにいるのだろう?
ふと、そんな疑問が頭を過ったが、頼んでおいたタクシーが6台、次々に到着すると、舞子は慌てて我に返り、子供たちに呼びかけた。
「さあ、皆。早く乗るのよ」
すると子供たちは手際よく、次々にタクシーの後部座席に乗り込んだ。
こうして子供たちが全員タクシーに乗車したのを確認すると、最後に舞子も、良介と共にゆっくりとタクシーに乗り込んだ。
「舞子さん。子供たちのこと、くれぐれも頼みましたよ」
神父が車の窓越しにそう言うと、舞子は「はい」と大きく頷いた。
するとタクシーは次々に発車し、セントラル空港へと向かい始めた。
神父は走り去っていくタクシーの後部座席に向かって、一所懸命に右手を振り見送った。
そして車の姿が視界から消え去ると、寂しそうに背中を丸め、ゆっくりと施設の中へ引き返した。
それから暫く経って、矢野が施設を訪れた。
「ああ、矢野さん。この度は本当にありがとうございました」
神父はそう言って出迎えるなり、深々と矢野に頭を下げた。
矢野はその神父の仰々しい態度に違和感を覚え、不思議そうに神父を見つめながら問い掛けた。
「神父さん。舞子は? 舞子はいますか?」
「えっ? 矢野さん、何をおっしゃってるんですか? 舞子さんなら、あなたが寄贈して下さった航空券で、ついさっき子供たちとハワイへ旅立ちましたよ」
神父がきょとんとしながら言った。
すると、矢野の顔から、さっと血の気が引いた。
「な、何だって? 神父さん。俺はそんなもん、贈った覚えなんかない」
「ええっ、どういうことですか?」
神父も、意外な矢野の返事に、動揺した。
「しまった。罠だ。急がねば」
矢野はそう言い残すと、右腕に箱を抱えたまま、慌ててワゴン車に乗り込み急発進させ、舞子たちの後を追った。
(つづく)