染み男第1号 (6)
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その晩帰宅した沙耶は、自室に閉じ篭もりベッドの上に横たわると、ぼんやりと中田の顔を思い浮かべた。
本当にこのままでいいのだろうか?
沙耶は、微かに自分の中で戸惑いがうごめき始めたのを感じた。
あの中田のせいだ。 なんていまいましい奴なのだろう。
今さら取材に協力しても、父が戻って来る可能性は皆無に等しいはずだ。
しかも、父が神隠しにでもあったかのように消滅したなどとテレビで訴えたとしても、世間の物笑いになるだけだ。もう疲れた。平穏な生活を手に入れたい。それのどこがいけないというのだ? 中田に、自分の夢を否定する権利などない。
今は少しでも河田の事が好きになれるよう、努力する事が肝心なのだ。
沙耶は頭の中にぼんやりと浮かんだ中田の顔を振り払うように勢いよくベッドから起き上がると、床に放置してあったハンドバッグから携帯電話を取出し、河田の番号をプッシュした。呼び出し音が何度か鳴った後、河田が出た。
「河田さん? 私です。沙耶です。今日はご馳走さまでした。お礼を言いたくて……」
「ああっ、さ、沙耶さん? 」
河田はかなり動揺していた。
「泰文、誰からなの? まさかあの人? 」
背後から、河田の母親らしき女性の声が響いた。
あの人?
あまりに他人行儀ないい方に、沙耶は嫌悪感を抱いた。
それにしても、家の中の様子が変だ。
「さ、沙耶さん。実はまずい事になった」
「河田さん、一体何が? 」
震える声で問い質すと、河田は声を潜めて告げた。
「いやがらせされたんだよ。誰かが『号外!歯科医河田泰文氏 染み男第一号の娘と婚約』だなんて書かれたビラを、近所中のポストに投げ入れやがった。おかげで母はかんかんだよ。収拾がつかない状態だ」
「泰文っ。そんな人と話しちゃだめよ。これ以上かかわるとろくな事がない。早く切りなさい」
母親の叫び声が沙耶の耳を震わせる。河田は「分かったよ」と大声で叫ぶと、囁くような声で言った。
「とにかくだ。悪いけど、暫く電話しないでくれないか。じゃあ」
その言葉を最後に、通話は途切れた。手から力が抜けていき、携帯電話が床に落下した。
沙耶は放心状態となり、そのままベッドの上に座り込んだ。
父が染み男と知れたとたん、手の平を返すように冷ややかな態度を取った河田。
そして、まるで自分をろくでもない人間だと決め付け、蔑む彼の母親。
沙耶にはふられたショックよりも、職場の人間と同様、世間の人々も自分をそのような目で捉えていたのだという事実を、つきつけられたショックの方が大きかった。
それは沙耶が今まで、頑として受け入れる事を拒み続けた事実だったからだ。
ぼんやりと、「それみろ」と言いたげな中田の、勝ち誇った顔が頭の中に浮かんできた。
すると沙耶の怒りの矛先は、次第に中田の方へ向けられていった。
婚約の事を知っているのは、あの場に居合わせた中田しかいない。
しかも中田は「協力しないではいられなくなるはずだ」と断言した。
それは河田との結婚がうまくいかない事を見越しての発言に他ならない。
中田だ。こんな卑劣な手を使って、婚約を妨害したのは―
自分を取材に協力させるためとはいえ、汚すぎる。沙耶の頭に、血が一気に逆上した。
許せない。あんな男になど、絶対に協力するものか。
沙耶は慌ててハンドバッグの中をまさぐると、皺くちゃになった中田の名刺を見つけ出した。中田の携帯電話の番号が記されている。
沙耶は携帯電話をゆっくりと拾い上げると、中田の番号をプッシュした。
「中田です」
電話に出た中田は、何事もなかったように平然とした態度だ。
沙耶の怒りは更にヒートアップした。
「岸本沙耶です」
「よお。君か。協力する気になったの? 」
「誰がよ? あなた、 あんな汚い手を使ってまで私を引きずり出したいわけ? 」
「汚い手? ちょっと待ってよ。どういう意味だい? 」
「しらばっくれちゃって。あなたは所詮、視聴率をかせぎたいだけ。頭の中にあるのはそれだけなんだわ。今後、二度と私の前に姿を現わさないでちょうだい。姿を見かけたら、名誉毀損で訴えてやるから。私、あなたになんか絶対に協力しないわ」
「おい、待てよ」
沙耶は矢継ぎ早にそれだけ言い放つと、電話を一方的に切った。
とたんに熱を上げすぎたせいか、軽い目眩が沙耶を襲った。
沙耶はそのまま、倒れるようにベッドに寝転んだ。幸福は、呆気なく遠ざかっていった。
この次再び幸福に巡り会えるまでの道のりは、果てしなく遠く、険しい。
沙耶にはそんな気がした。自分に残された道。それはこのまま永遠に眠り続ける事。
今の沙耶には、それ以外に考えつかなかった。
(つづく)