
久しぶりに横浜市営地下鉄の車両基地にご対面です
裸眼では車両が見えているのですが、写真だとうまく視線の高さが
低くなるのでうまく車両が顔を出してくれません

鶴間の手前で休憩します
鶴見川はこの辺りに来ると、川遊びが出来るように堤防から川面へ
降りれるようになっているところがたくさんあります

さらに上流にペダルを回していくと、川の真ん中に緑がこんもりしている
場所、「鎧堰」に行き着きます
「鎧堰の歴史」はこちら
鎧堰は、永禄八年(1565年)に八王子城主、北条氏照候の印版状を得て
武藤半六郎が構築した
北条氏照は天象十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻略による落城で
秀吉から切腹を命ぜられた
しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで400年以上に
わたって野津田地区で八町八反歩(約87000平方メートル)の水田に豊かな
農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれたきた。河川整備に伴う鎧堰の
撤去に際し、歴史を記す
平成二十一年/font>

「鎧」の名の由来はこちら
元弘三年(1333)五月八日、上野国新田庄(群馬県新田郡)の武将
新田義貞は後醍醐天皇側からの命を受け、鎌倉幕府を倒すための兵を挙げました
新田軍は、上野国から武蔵国に入り、鎌倉街道上道に沿って兵を進めます
対する鎌倉幕府軍は、五月九日に鎌倉を出発します。両軍は、小手指原(入間市)
久米河(東村山市)にて衝突し、五月十五日には武蔵国府の有る府中に至ります
十五日十六日の二日間にわたって分倍河原(府中市)では激しい戦いが
繰り広げられました
多摩川を越えた関戸付近では敗走する幕府軍を追って、激しい掃討戦
(関戸合戦)がおこなわれました
この関戸合戦の末端で戦い犠牲になった兵の屍が鶴見川を流れ折り重なって
堰をなり、その状況を見て 「鎧堰」 (当時は鎧ヶ淵) と呼ぶようになった
という伝承があります
続く・・・/font>