
観音崎に向う途中では、結構な確率で巡視船を目にします
定期的なパトロールの航路になっているのでしょうかね?
対岸の千葉県が異様に近く感じますね!

私が三浦半島にお邪魔し始めた4年前頃には気が付かなかったのですが
鴨居港の堤防にこの日は運よくお邪魔することができました(本当は漁業関係者
以外ダメだと思うのですが、釣り人もいたのでちょっとお邪魔してみました)
海に突き出した感じがとても爽快です

浦賀の旅籠「徳田屋」さん跡の前を通り裏側をグルリと回ります
徳田屋さんの説明はこちら
浦賀の旅籠の草分けである徳田屋には、多くの武士や文化人が宿泊したことが
わかっています。 それは旅人自身の日記などから知れることで、徳田屋の宿帳が
現存していたならば、 その「宿帳」だけで浦賀の文化史を語ることができたのでしょう
明治の元勲を多く輩出した「松下村塾」の塾頭である吉田松陰は、
その日記に、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋の主人からの情報をもとにして
師の佐久間象山らと協議したことを残しています
今回の黒船来航では、2年前の見聞で、日本側の防備の実情を知っているだけに
手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと
今後の日本のとるべき方向などを語り、議論百出した様子を記しています
このように、歴史の表舞台にも登場する徳田屋ではありましたが、
万延元年(1860)の桜田門外の事件に関しては、苦い思い出もあります
井伊大老を殺害した水戸藩士の残党が立ち回るおそれがあるので、どの旅籠でも
奉行所の役人が来て、宿泊人全員の厳重な取り調べを行う手はずになっていました
その日、徳田屋に泊まった房総からの7人の客を「明朝の取り調べが済むまで止めて
おくように」と指示を受けていたにもかかわらず、理由は明らかではないが、
なぜか出発させてしまい、 奉行所から厳重な注意を受けました。
当時、徳田屋では番所の「船改め」を受けずに、房総半島へ直行できる船便を持って
おりこれも徳田屋の特色の一つでした。
徳田屋は、大正12年の関東大震災まで存続しました
今は、その跡に碑が建っています

サニーサイドマリーナさんやヴェラシスさんど浦賀には大規模な
マリーナがありますが、浦賀の渡しのすぐそばにあるマリーナは、ひっそりした
雰囲気で落ち着けます
続く・・・