前回の記事↑の続きです。
姉妹喧嘩から始まった、19番「太陽」のカードとムーミン谷のことについてです。
前回、
ムーミン谷こそ、まさに「太陽」だな!と思う、という話をしました。
ムーミンを読んでいると分かるのですが、
ムーミン谷の住人は基本的に、
自分の線(2番女教皇)や、自分の信念(5番教皇)が、非常に強いです。
どちらかというと自由を好む「女教皇」タイプが多いのですが、
伝統を重んじたり、空気を読んで合わせる「教皇」タイプの種族もいます。
嫌なものは嫌!
私が正しい!
お互い文句もストレートに言うし、ちっとも合わせる気がない(笑)
でも、同じ谷で生活しているんです。
特に『ムーミン谷の11月』は、それがよく分かります。
気が合わない人たちが、ひょんなことから晩秋を一緒に過ごすことになってしまうお話です。
共通点はただ一つ、「ムーミン一家が好きで会いに来た」というだけ。
それなのに、肝心のムーミン一家が旅に出てしまって留守で、しかたなく帰ってくるまでムーミン屋敷で待つことになる。
個性の強いキャラクターたちの共同生活が、とてもリアルに描かれている作品です。
常識から考えるとバランスの悪い
彼らの個性は、作品の中でぶつかりあう。
自分勝手なわけではない。
ムーミン谷は、多くの個性が個性的なままに包み込まれる「共生」の世界である。
しかし、その「共生」は「調和」ではなく、あくまで「不協和音」によるものなのだ。
この「不協和音」の強い響きの底には、
「完全なる調和」はその完全さゆえに
何かに犠牲を強いるのではないかという疑いが流れている。『ほんとうはこんな本が読みたかった! ー児童文学の「現在」セレクト57』
原書房/上原里佳(著者),横田順子(著者),鈴木宏枝(著者),神戸万知(著者),神宮輝夫(監修)
↑この書評に書かれている「完全なる調和」というのは、
タロットで言う「教皇」ですね。
みんなで同じ理想を目指す世界。
でも、
「太陽」には、理想や向上心はありません。
多様性を受け入れる心の広い人でなくちゃダメ、ということもないです。
ムーミンのテーマとしてずっとあるのは、
「変わらない自分らしさ」と
「他者への思いやり」です。
これってまさに、「太陽」の世界観ですよね。
「この世の中に自分とは違う存在がいる」ということを認識すること自体が、肝心なんだと思います。
あーそういう人っているよねー、嫌よねー、
って言っちゃってもいいでしょう?
いつか心から許容できて、悟りの境地に達したなら、それは素晴らしいと思います。
でも昨今、なにかにつけて、
「多様性を受け入れましょう」、
「いろんな意見があっていいよね」
と言われますが、
それは一歩違えば、無関心やどーでもいい、自分の意見がない、というのにすり替わってしまう気がするからです。
もっと喧々諤々(けんけんがくがく)(goo辞書)じゃダメなの?って思います。
例えば野球が好きな人のコミュニティがあったとして。
俺は巨人しか認めない!とか、日本ハム以外は野球じゃねえ!とか(例えばです)ケンカになっているとします。
そこに間に入って、「まあまあ、どこが勝ってもいいじゃないですか。みんな頑張ってほしいですよね。」という意見を言う人。
その人は、本当にものすごく野球が好きな人か、もしくは大して関心がない人だと思います。
喜怒哀楽を切ること=悟っていることではないと私は思いますし、
むしろ喜怒哀楽を散々やって、最後に出てくる酸いも甘いも噛み分けた境地の方が、タロットの「太陽」に近いと思います。
というわけで、まとめで姉妹喧嘩の話に戻りますが(^_^;)、
うちは比較的早く両親が要介護になってしまったため、父母のケアのことやら、不動産の管理やら、親戚関係のことやらで、姉とは今後も一緒に協力する必要があります。
なので、
文句はたくさんある。
私の正しさも、私の線も、譲らなくていい。
相手を受け入れなくてもいい。
でも、あなたと一緒にいる。
それでいいんじゃないかな、と今は思います。
切っても切れない関係で、「受け入れましょう」をやっても、きっとどこかで無理が来ると思いますからねえ。( ̄Д ̄;