(注)以下の文章は、ほぼ殴り書きです。きちんと煮詰めていません。気が向いたら煮詰めます。悪しからず。

 

 

 大学院入学から学部1・2年生の和声の授業のTA(ティーチングアシスタント)を務めさせていただいています。なかなか勉強になりますし、お金もぼちぼちもらえるので一石二鳥です。

 和声の授業を受けている子たちを見ると……まぁー、やる気のない子もいますよね。自分も2年の時は割とそうだったので、気持ちは分かります。難しいし。何より、何のために勉強しているのか、分かりにくいですよね。

 何故、(島岡)和声を勉強するのか、とりあえず自分の意見を書いてみます。

 

①    作編曲の技術を身に着けるため

 

 誰でもすぐに思いつく理由でしょう。でも器楽専攻だし......作編曲なんてしないし......というのが正直な所。でも、指導等で不意打ちのように求められたりしますよね?多分。

 

②    曲の分析、解釈のため

 

我々は仮にも音楽を専門的に学んでいます。曲の魅力を語る時「なんかいい曲!」「〇〇みたい!」みたいなことしか語れないのはアマチュアと同じですね。残念な事に、音大でもその程度の奴ばかりでしたが、音楽の専門家なら、実際になっているどのような音が、どのような理由で、どうして良く聴こえるのか、論理的に説明してもらいたいものです。この時、和声の知識は一つのツールになります。また、作曲家はそうした知識をもとに悩みに悩みぬいて作曲しているのです。作曲家の気持ちや意志を理解しようとした時にそうした知識が必要なのは明白でしょう。

 

③    「美しい音楽」や和声に対する感覚を効率的に養う

 

 これが自分の1番主張したいものです。理論的に正しい音楽は美しいです。(というか美しいとします、か?)和声の授業では、理論的に正しい音を、ある意味無機質にでも叩き込むことで、美しい音楽がどうやってできているのか、和声がそのように進行しているのか、それに対する感覚を養うことができるのでは思います。西欧人は、週末の礼拝やナンヤカンヤで幼い時から和声等に対する鋭い感覚をいつの間に持っているのかもしれませんが、我々は坊主の説教くらいしか聴いたことがないものですから(?)、なるべく効率的に和声等に対する鋭い感覚を養いたいものです。

上手く文字にはできないのですが、和声を勉強したことで自分が曲を聴く時の姿勢や感覚が変化したことは何となく感じます。演奏にも表れて……いるかも、いないかも。

 

 

ところで、武蔵野音楽大学では、所謂藝大和声(島岡和声)を教えています。和声理論は勉強すべきものですが、それが島岡和声である必要性はあるのでしょうか?

 

はっきり言って、島岡和声である必要性はないように思えます。現に、現在の藝大では数字付きバスを教えているとか。島岡和声には色々な問題点があるのも事実です。ただ、島岡和声が数ある和声理論の中でも分かりやすく、明快に作られていると思います。島岡和声で躓く奴は、多分他の和声理論だともっと躓くのでは、と思います。知らんけど。

 

 

それから、個人的には2年生くらいから和声と並行して対位法も教えた方が分かりやすいのではないかとも思います。どうでしょう?

 

とりあえず、僕は和声をもうちょっと勉強してみることにします。ばいばい。