僕は元来、心配性で、一日に16時間起きているとして13時間は心配に費やし、残りの3時間は祈祷をしているのだが、最近頭をもたげてきたのは、自炊が出来なくなるのではないかということ。
この5月に結婚した妻の熊子は、爾来、家事を一手に引き受けてくれている。
台所に入ろうとしても、遠慮しているのだろうか頑なにこれを拒否する。
お陰で僕は6月に新居に越してきてからというもの、調味料や鍋類の在り処がイマイチ分からない。
仮に妻が事故か何かで死んだら、僕は少なくとも当座の生活に不便を託つだろう。
妻が死ぬなんてのは縁起でもないかもしれないが、特定の死んで欲しくないという願望と実際の死亡リスクとは全く別次元の話で、僕は折に触れて心配をしている。
つまり、僕が家事を手伝いたいというのは好きとか嫌いとか、妻に気に入られたいとか小遣いを上げて欲しいとかの問題ではなく、万一の際のリスクを低減することが目的である。
家事くらいやる気になればいつでも出来るという向きもあるかもしれないが、それは根拠のない驕りというもので、以前放送されていたドラマ「熟年離婚」なんてのを観ても分かるように、習慣化されていない物事はいざ取り組むとなると大変手間取るというのは、これは必定である。
特に食生活というのは非常に大事で、人間食べていかなければ生きていけぬ。
出来るだけ健康な心身を維持したいと念願するなら、男児厨房に入るべからずなどと嘯いて賭博や遊郭通いに勤しむだけでなく、やはり日頃から家事にも精通していなければならんというのは、僕が小学校4年生の秋の遠足以来の持論です。
というわけで、僕は妻が先程外出したのを機に、約1ヵ月半ぶりに茶碗洗いをしてみたのだが、ほらご覧、大きい鍋類から先に洗ってしまって、包丁やスプーンが水切りラックに入らない。
続いて米も研いでみた。
以前は計量カップなんて愚鈍な道具を使わずとも目分量でふっくらと絶妙な米を炊けたものだが、ほらご覧、自分がぶち込んだ米に対して、どのくらいの分量の水を入れていいものか、さっぱり分からない。
この時点で僕は混乱を来し、頭を猛烈にかきむしった。
家事の天才、キング・カジを自任していただけに、この体たらくに衝撃を受けたのである。
こんなはずはない、こんなはずはない。
僕は朦朧とする頭で、味噌汁作りを始めたが、ふと我に返ると味噌パックをそのまま鍋にぶち込んで火をかけていた。
ぐわぁっ、俺としたことが。
僕はついに錯乱し、研いだばかりの米を床にぶちまけ、「錯乱ライス!」「錯乱ライス!」などと叫びながら、皿という皿を全て壁に向かって放り投げ、冷蔵庫の野菜室から韮や青梗菜を取り出してこれを自分のブリーフの中に突っ込み、島木譲二のポコポコヘッドの要領で卵を次から次へと頭に叩き付けて、そのまま昏倒した。
つい先程、覚醒してブログを書いているのだが、黄身が目に入って非常に難儀しています。

