夜のセントラルパークにて
昼間と違う雰囲気を出してます
寒いせいか、人通りもまばら…

ルーマニアってどんな印象を持っていますか?
日本に住んでいたころはチャウシェスク政権時代と新体操競技、ドラキュラ伯爵くらい。
ドイツに移り住んでからは、それプラス娼婦とロマ問題が足されたほど。
でも、個人的には好印象の国。これは出会ったルーマニア人が良かったからだと思う。2007年にEU加盟。その前後は、インフレや生活水準の低下、高い失業率に見舞われながらも、少しずつ経済成長を成し遂げて、2013年には一人当たりのGDPが17135ドルになるまで成長。中進国的な位置にまで成長したが、まだまだ貧しい国。EU加盟国の中では最貧国の中の一つで、お隣のブルガリアと最下位争いをしている状態…大卒社会人の初任給なんて、月収、100ユーロほど。ちなみに、ハンガリーだと300ユーロ前後。じゃあ、物価が安いかというと、そんなに安くはないし、最低限の生活もままならない。では、どうするか?出稼ぎ労働者や犯罪者になるだけ…
女性は売春婦で男性は泥棒かマフィア。リスクは高いが手っ取り早く稼げるから…ちんたら真面目に働いていたんじゃ、食うものも食えないし、養うものも養えない。売春や犯罪に手を染めるのは何らかの理由で低学歴の人間が多いけど、ルーマニアはちょっと違う。大卒の人間だってそうなってしまう。いや、そうしなければならないほど国内に仕事がないのも事実…
蛇足ですが、この国に娼婦が多い理由としては、モルドバ同様、ラテン系の民族なので性に関して大らかだからって言われているのと、ロマ人やロマ人との混血で何らかの就職差別を受けている人がほとんどとも聞いたことがある。あとは、ルーマニア国内では売春行為が禁止されたために、その反動で各国に散らばったのも原因


EU加盟前のルーマニアはというと
1989年までルーマニアも旧社会主義国
第二次世界大戦は枢軸国として参加し、ドイツ敗退後はロシアに侵攻されソ連の圧力により共産化、1947年からルーマニア人民共和国となり、1965年にはルーマニア社会主義共和国となる。
これと同時に登場したのがニコラエ・チャウシェスク。
24年間にわたってルーマニア共産党政権の頂点に立ち独裁権力者として君臨。
ただ、東欧の社会主義国ながらも、ソ連や東ドイツなどと距離を置き西側諸国との関係を強化し、国民の支持率は高かった。1975年には妻、エレナと共に日本にも訪問している


その反面、国策としてはコテコテの独裁者ぶりを発揮
チャウシェスクはルーマニアの国力を増強できるのは人口増と考え、国策として1966年に政令を公布。避妊と堕胎手術を禁止し、45歳に満たない女性は、特別な事情がない限り子供を4人産むまでは中絶してはならないとし、さらに、5人産むまでと変更。5人以上の子供を産んだ女性は英雄の母の称号を与えられたが、当時の国民には満足な食糧も、ミルクもない状態なので、闇の中絶も横行し、たくさんの女性が命を落とす。さらに、離婚に関しても大きな制約を設け例外を除いては禁止処置をとり、違反者には半年~1年の懲役刑が処せられた。
そうして、ルーマニアの人口は増加に転じるが、貧しいから育てることなんて無理。では、親はどうするか…育児放棄が続出し、孤児院に引き取られる子供が何千人と増える。その原因は、生産した物資の大半を海外に輸出しつづけた「飢餓輸出」。上記に書いたように物資不足。おまけに、水も止まり、冬でも暖房が止まり、大人でも生きて行くのが精一杯の状態が続いてしまったから。これが、いわゆる後の「チャウシェスクの落とし子たち」。孤児院にもミルクなんてなく、次々に栄養失調にかかるが、子供を死なせてしまえば職員の給料が減らされるため、苦肉の策で体力回復のために大人の血液を輸血。その中にHIVに汚染された血液が混じっていてHIVに感染する子供も急増。しかし、チャウシェスクは「社会主義国にエイズは存在しない」と宣言し、治療を許さなかった失政によりエイズを広げる原因を作ってしまい、ヨーロッパ諸国の中では子供たちのエイズ感染率が最も高い国になってしまう。革命後は、先の見えない子供たちの多くは孤児院を飛び出し、ストリートチルドレンとなり、雨風をしのぐため、マンホールの下に住みつき、生活のために幼児売春、臓器提供、人身売買などの闇のビジネスに翻弄され、多くが悲惨な運命を辿ってしまう。しかし、そんなチャウシェスク政権時代の孤児院の中でも例外的に「優秀な子供」として選ばれた子供たちが短命だがいる。それはセクリイタテアという組織のメンバー…いわゆる、ルーマニアの秘密警察。主にメンバーは国営の孤児院出身者から構成され、この組織に選ばれた子供たちは、洗脳と特殊訓練を受けて従事。ルーマニア全土に盗聴器を設置し、「街中のカフェやレストランには必ず盗聴器が仕掛けている」と言われるくらい国民を徹底的に監視し、小学校にも授業時間に間諜として送り込み、チャウシェスク政権への不平、不満を報告。優遇はされていたが、崩壊後は、悲惨な人生を送るものが多かった。特に育成途中の子どもたちの多くはストリートチルドレンになってしまう…


エイズ感染したストリートチルドレンたちは、十分な治療を受けるすべもないから、事態はさらに悪化の道に進んで行く…それは男女を問わず行われた売春行為。西ヨーロッパから来たセックスツアーの人を相手にコンドームを使用せず、売春行為を繰り返しエイズ患者が増加、悪化と長期化を招いてしまう。こうなった背景には、観光客側が後のことを考慮しなかったことと、売春側の子供たちは貧しさからコンドームが購入できなかったことにもある。


そんな面影は今のルーマニアには感じない…
しかし、当時のチャウシェスク政権時代を懐かしむ声があるのも事実
人間って、どこまでいっても、ないものねだりやなと…
これって、隣の芝は青い理論でしかないんだよね。


で、当のチャウシェスクはというと…
豪遊に次ぐ豪遊を繰り返し、国民とかけ離れた優雅な生活に明け暮れ、首都のブカレストには世界で2番目に大きな「国民の館」を建設し、党や国家の要職に家族、親族30人以上を就け、個人崇拝を強制し、1980年代には急速に支持率を失い、ついに、1989年12月21日に東欧革命で唯一、武力によるルーマニア革命が発生。翌、22日にチャウシェスクは非常事態宣言を出し、事態に対応しようと試みるが軍隊が革命勢力に参加したことで頓挫、妻エレナとヘリコプターで大統領宮殿を脱出。23日に国軍により逮捕され、クリスマス当日の25日に特別軍事法廷で60000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財の罪により死刑判決を受けた後、妻と共に即日銃殺刑が執行される。こうして24年間のチャウシェスク政権は幕を閉じるこになった。ちなみに、銃殺された場所は、チャウシェスクがドラキュラを国威高揚にしたドラキュラ居城でした…
この当時の様子は日本でも連日連夜、テレビで流されて釘居るように見てたし、インパクトは強烈だったのを今でも覚えてる。暴動、脱出、銃殺後のチャウシェスク夫婦の死体…


こちらはオペラハウス


ルーマニア正教会
実際はもっと、もっと綺麗です
この時期に休みが取れて旅行を考えているならば
ヨーロッパにしてみませんか?本場のクリスマス気分が
味わえるのを100%保障しますよ


苦しい時期を乗り越えて来たからこそ、今の豊かさがあり、幸せがある…
そこから逃げたら発展なんてできない。それは、日本だって経験したこと…
だから、今も貧しく暮らしてるルーマニア人には希望を持って生きて行って欲しい…
  
モルドバ編、ルーマニア編と続いて売春関係のことを取り上げているのは訳があってね…
このルーマニア編で書こうか、書くまいかと悩んでる…
今回はパスするけど、いつか書くつもり。次回になるか、それともずっと先になるかは分からないけど、
必ず書きたいし、書いてみたい…「金欲しさに股開いてる売春婦が!」って見下して笑ってる人間に
読んでみてもらいたい。本当の彼女たちの真実を…