私は、15歳の時、自分が当時、境界型人格障害であることを主治医から知った。

人格障害がどんな障害なのかよくわからず、初めて聞いた時は、「そうか」という感想。出会った。

現在36歳。自分の行動パターンや認知の歪み、感情がコントロールできないことを理解できるようになった。というよりも、客観視できるようになった。

 

私は、1986年四国のとある県の県庁所在地に長女として生まれた。2歳離れた兄が1人いる。

父は、農家の次男でサラリーマン。母は、専業主婦であった。

母は、教育熱心で私が幼稚園の時に、学習塾を始めた。実家は父の両親が結婚の時用意したもので、庭は広かった

。その庭に砂場があり、兄と遊んだ記憶がある。母が砂場の上に平家を建て学習塾にした。その時、悲しかったことを今でも覚えている。

私が物心がついた頃から、母はよく他人や父、父の家族の悪口を言っていた。母は、県内の進学校を卒業しており、それが母の誇りであり、それを私や兄によく吹き込んでいた。今思うと母も感情の起伏が激しく不安定な面があったのだろう。そして、人を貶めることに快感を得るタイプの人間である。それは、今でも変わらず継続している。

 

私は、幼少期から吃音があった。母はそれを気にして、言葉の教室に私を連れて行った。母が気に入らないことがあれば、「このどもりが」といい、私を罵った。そして、幼稚園の頃から、集団での立ち振る舞いが苦手だった。幼稚園の時の行事でサンドウィッチパーティーがあり、各グループに分かれ、サンドウィッチを作ることがあり、私は、自分がどのグループで何をするのか分からなかった。この記憶だけは深く残っている。周囲に大人がいたが、私は、心が空っぽだったのを今でも覚えている。

母は、私を置いて、良く買い物などに出かけていた、寂しくて玄関で寝たり、庭で母が帰ってくるのも道路を見ながら待っている少女時代を送っていた。

 

小学生に上がると、友達はできなかった。集団の中で人との付き合いが苦手だったのだろう。3人以上との関係構築が難しかった。勉強もできず、母から「LD(学習障害)」と罵られた。算数や図形が苦手だった。勉強ができなければ、叩かれた。そして、母は家で父の保険外交員の悪口をよく言い、たまたま、保険外交員が家の近所の主婦たちの集まりに来た時、私はその外交員に向かって「帰ってください。保険は要りません」と母や近所の人たちの前で言ってのけたのだ。父は母からその話を聞いて、子どもの言うことだからと言い相手にしなかったが、母は憤慨していたようだ。母は、私の発言や行動を認めることをしなかった。しかし、教育には、熱心で小学校に上がる前から、ピアノ、水泳、習字、学習塾、ガールスカウト、体操など小学4年生まで通わしていた。ある日、それらを全てやめることになった。理由は分からないが、習い事先で母がトラブルを起こしていたのではないかと思う。

 

また、母は、私に小学5年生まで、おかっぱ頭を強要した。今でいうチコちゃんの髪型で、後ろは刈り上げにされたのだ。母は、この髪型にしなければ不満になり怒っていた。私は三つ編みやツインテールにしたかったが認められなかった。小学校に行けばこの髪型でいじめられ、散髪中に涙を流したことを今でも覚えている。それを見ていた母は、美容師に失礼だと私を罵った。