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先日、二尊院に行きました。
総門からの道は、秋には「紅葉の馬場」と呼ばれ、京都でも有数の紅葉の名所です。
二尊院の名前は、釈迦・阿弥陀の両如来を本尊とすることに由来します。
両尊は「発遣(ほっけん。人を誕生させ、人生を歩み出させる)の釈迦如来」と
「来迎(極楽浄土へ迎え入れる)の阿弥陀如来」と言われます。
もとは9世紀前半、嵯峨天皇の発願により、慈覚大師・円仁(天台宗・最澄の弟子)が建立し、
一度衰退したものを、鎌倉時代初期、法然の高弟である湛空が再建し、
さらに鎌倉末期、後深草・亀山・後宇多・伏見の4天皇の戒師となった叡空という人物により、
隆盛を誇りました。
応仁の乱で焼けた後、16世紀前半に再興されて現在に至ります。
二尊院は天皇家とのつながりが深く、土御門・後嵯峨・亀山の3天皇の分骨を安置する三帝陵などもあり、今でも、本堂には「天皇・皇后両陛下」と書かれた、両尊への進物が置かれています。
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裏手に回ると色々なお墓があります。
公家の各家はもとより、高瀬川の開鑿などで知られる江戸時代の豪商・角倉了以など、
さまざまな有名人の墓があり、案内が出ています。
二尊院の墓、と言えば、さる11月22日、京都新聞で、
「吉田光由の墓、二尊院に」というニュースが報ぜられました。
吉田光由は江戸時代の和算家で、算術書『塵劫記』の著者として知られます。

江戸時代に和算の大ブームを巻き起こした牽引役でした。
身近な所では、億・兆・京・・・無量大数や、分・厘・毛・・・といった数の位取りは、
『塵劫記』の説に拠るものが現在でも用いられます。
光由の墓は、大分にある分は知られていたのですが、生地の京都・嵯峨にもあるはずだとして、
篤志家が調査されていたのが、ようやく確認ができたようです。
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その中に、阪東妻三郎、田村高廣(高広・たかひろ)父子の墓の案内を見つけました。
父・阪東妻三郎は「阪妻」の愛称で知られた二枚目俳優で、
俳優の田村正和さんは、高廣さんの実の弟です。
高廣さんは旧京都第三中学から同志社大学に進みましたが、
その旧京都三中を前身として昭和23三年に発足したのが、現在の山城高校です。
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山城高校といえば、アナウンサーの野村啓司さんや、タレントの浜村淳さん、故・山城新伍さんがOBにあたります。
高校時代はラグビー部。
20代の時テレビ時代劇『白馬童子』で有名になり、後にテレビ番組の司会などで活躍しました。
2009年に亡くなり、金閣寺に葬られました。
山城高校出身の有名人として、阪神ファンなら知っているかもしれないのが、吉田義男さんです。
阪神は、最近では2003・2005年を含め、リーグ優勝は5回あるわけですが、
その中で唯一、日本一に輝いた1985年の時の監督です。
1985年の、バース・掛布・岡田の打線は、社会現象になりました。
もともとは旧制京都市立第二商業学校に通っていましたが、学制改革で同校が廃校となったため、
山城高校に編入となったようです。
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山城高校出身で一番の有名人といえば、釜本邦茂さんではないでしょうか。
言わずと知れた名サッカー選手で、日本代表として歴代1位の得点記録を持つFWで、
1968年のメキシコ五輪では日本の銅メダル獲得に最大の貢献をし、大会の得点王にも輝きました。
釜本さんは、太秦小学校でサッカーを始め、
蜂ヶ岡中学から山城高校へ進みました。
Topsには、蜂ヶ岡中学→山城高校という、まったく同じコースをたどっている生徒もいますから、
なんか親近感を感じますね。
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ちなみに、蜂ヶ岡というのも、きわめて古い歴史を持つ地名です。
平安京遷都以前からあった太秦・広隆寺は、もとは「蜂岡寺」といったようです。
太秦(うずまさ)という地名は、平安遷都以前にこの地で勢力を誇っていた、渡来人である秦氏に由来し、
広隆寺はその秦氏が建てた寺なのです。
『日本書紀』推古天皇十一年条に、
十一月己亥の朔(つひたち)、皇太子諸大夫に謂ひて曰はく、「我 尊佛像を有せり。誰か是の像を得て以て恭しく拜せん」と。時に秦造河勝(はたのみやつこ・かわかつ) 進みて曰はく、「臣之を拜せん」と。便ち佛像を受け、因りて以って蜂岡寺を造る。
(十一月己亥朔、皇太子謂諸大夫曰、我有尊佛像。誰得是像以恭拜。時秦造河勝進曰、臣拜之。便受佛像。因以造蜂岡寺。)
とあります。「皇太子」は聖徳太子のことですから、秦河勝が聖徳太子から仏像を拝受して造ったのが「蜂岡寺」、今の広隆寺というわけです。
そして、その仏像というのが、同時所蔵の至宝としてあまりに名高い、国宝第一号の「弥勒菩薩半跏思惟像」なのです。






