つづき。


余震におびえながら夜をすごし、

翌日は、友人の夫と、うちの夫で、何か食べ物を入手してきてもらうことになりました。


幸いに、阪急電鉄の西宮北口駅からは、翌日(だったと思う)には大阪の梅田まで出ることができました。

被災地を脱出するひとは、西宮北口駅を目指して

神戸方面から線路沿いに歩いた人も多かったようです。


西宮北口駅には、阪急電鉄の車庫があり、電車があったこと、

武庫川より東の被害が比較的軽かったことなどにより、電車の運行の再開が早かったようです。

西宮北口は、いつもとちがう異常な人の多さでした。


阪急塚口駅まで出ると、インスタントラーメンが売っていたそうで、

「なんとかスーパーカップ1.5倍」みたいなのを、たくさん買ってきてくれました。


2~3日したら、私の住んでいた家の電気が復旧しました。

倒れていた電信柱は、元に戻っていました。


なので、友人宅を出て、家に戻りました。

電気があると、コタツがつけられるし、お湯は沸かせるし、テレビも見られました。

ガスと水道がないので、お風呂にも入れないし、調理もできません。


トイレが最大に困りました。

すぐに、トイレが詰まりました。

神戸の北のほうから水道業者の人が来てくれて修理してもらいましたが、それはもう大変でした。

自分の仕事も大変な仕事だと思っていましたが、それ以上の大変な仕事だと思いました。

修理費は5万ほどだったと思うのですが、それでもよかったと思いました。


夫の会社は大阪にあったので、すぐに通勤しました。

震災3日目ぐらいに、夫の会社の人がおにぎりをたくさん持ってきてくれました。


うちで食べるには余るので、だれかにあげようと、持って出たら、車に乗った人に道を聞かれました。

「〇〇〇学校は、どこですか?」

場所を教えてあげて、ついでにおにぎり要りませんか?と聞くと、

「私たちは、被災地から離れたところから来ましたので。」と、去っていきました。

後で考えると、〇〇〇学校は、遺体の安置がされていたそうでした。

たぶん、身内のご遺体に対面しにいくところだったのだな、と、後で気がつきました。


食べ物は、おにぎりやらカップ麺などのものを食べ、

水は、近くの学校まで給水車が来て、ポリタンクでもらいに行く日々が続きました。

長女が小さかったので、連れて行けずに、家で待たせていました。

余震もあったし、怖かったかもしれないけど、一人でちょこんと座って待っていました。

給水車は、和歌山県から来てくれていました。寒いのに、ありがたいな、と思いました。


何日かしたら、できれば出勤するように、と職場から連絡がありました。

鉄道は、西へは行くには、全部止まっています。

長女の保育園が再開されていたので、

私は、自転車で神戸市東灘区の職場に行くことにしました。


自転車で国道2号線を通って、芦屋を通過して、神戸に行きました。

被害の大きかったあたりです。

西のほうを見るとものすごい埃で、倒壊家屋で道がふさがれ、道をいろいろ変えて、

それでも2時間ぐらいで神戸に行けました。

工事車両がとても多かったです。全力で復旧に努めてくれていたのでしょう。

倒壊した阪神高速道路も、実際に目の前にしました。斜めになった道路に、車がほったらかされていました。

いつになったら、元に戻るのか、と、思いました。


職場の一部も、遺体の安置所になっていたそうです。


途切れ途切れに鉄道が再開し、代替バスも出たりしていましたが、移動は並ぶし混雑するし大変でした。

10月に流産していた子どもがもし、宿っていたら、

妊婦では、とても通勤や普段の水くみなどできないと思いました。

流産は悲しい体験だったのですが、そういう風になっていたのだ、と思うようになっていました。



つづく。