皆さんこんにちは。

バタコです。


今日は、「阪神淡路大震災」から、16年です。

記憶を整理するためにも、自分の被災体験をブログに書こうと思いました。


ご家族を亡くしたり怪我をされた方は、本当にもっと大変な目に遭われたと思います。

被災地の完全復興・今後の発展と、犠牲者の方のご冥福を心からお祈りいたします。


長いですけれど、お時間のある方は、読んで下されば幸いです。


当時、わたしは、兵庫県西宮市内の賃貸住宅に住んでいました。

震度6と7の境目ぐらいのエリアだったと思います。


1995年1月17日、朝の5時半ごろ。

祝日の後の、火曜日だったと思います。連休の後で、仕事に行くのがイヤだなぁ、と、思っていました。


夫、当時2歳の長女とわたしの3人で川の字になって寝ていて、もう少ししたら朝やな、って思って、

枕元にある婦人体温計を取ろうと思っていたとき。

(ちょうど、その3ヶ月前に流産をしたために、基礎体温を測っていました。)


家ごと、ダンプカーに載せられて、でこぼこ道を走っているような。

声を出すこともできませんでした。

地震だと思わずに、トラックとか何かがうちの家に飛び込んできたのかと思いました。


とっさに夫が、わたしと長女の上に覆いかぶさって、うぐっ!うぐっ!と、食いしばるような声を出していました。

揺れは、30秒ぐらいに感じました。

何か、大変なことが起こった。すごい恐怖を覚えました。


揺れが収まってから身体を起こすと、

頭側にあった洋服ダンスが倒れて、ひきだしが、夫の背中にどさっ、どさっ、と乗ってきていたようでした。

夫はたいした怪我でもなく、私と長女は無傷でした。

長女はすやすやと、眠ったままでした。


室内はどうやら、むちゃくちゃになっているようでした。

そんなところに家具は無かった・・・と思う位置には、

キッチンの大型冷蔵庫が1メートルぐらい動いて立っていました。


隣の部屋のコタツの中に、眠った長女をそっと入れて。


窓を開けると、ものすごい埃が室内に入ってきて、何も見えませんでした。

隣のアパートが倒壊したために、その粉塵が舞い上がっていました。

男の人の悲鳴のような、混乱した叫びのような声が響いていました。

(後で聞くと、母親と奥さんが倒壊した家の下敷きで亡くなった方のご主人の声だったそうです。

ご本人はたまたまトイレに入っていて無事だったそうです。)


近所の人は、パジャマのままで近くの公園に集まってきていました。

まったく情報がなくて、わからなかったのですが、これは東海大地震だと、最初思いました。

だれかがラジオをつけて、「震源が淡路島」ということを言ったので、

神戸の両親が心配になりました。


駅の近くの公衆電話はものすごい列だったのですが、夫に並んでもらって、安否を確認してもらったら、

意外と、神戸市西部にある実家のほうが被害が軽かったのでした。

「エライ揺れたねぇ~」と、当時まだ健在だった母が言っていたそうです。


これはどういうことだろう??私の住んでいる周りはむちゃくちゃなんだけど??


公園で、長女をベビーカーに乗せ、毛布にくるまっていると、すぐ裏の家から、煙が上がるのが見えました。

火事!と思いました。

消防車がそこまで来ていましたが、電信柱が倒れて道路をふさいでいるので、車が通れないのです。

幸いに、その火が大きく広がることはなかったです。(消火された?)


時々、あたりが騒がしくなって、

家屋の下敷きになって救出された人が3人ぐらい、

畳にのせられて、近所の人の手によって運ばれていきました。


パニックになるとか、泣いているような人は、公園に集まっていたたくさんの人の中にはいませんでした。

なんというか・・・目の前に起こっていることに驚いているというか。


余震のたびに、あちこちで小さな悲鳴があがりました。

何度も何度も、震度3~4ぐらいの揺れが後から来て、

またあんなに揺れたらどうなるのか、と不安になりました。


夜が明けて、自分の家の室内を見ることが出来るようになって、靴のまま室内に入って、呆然としました。

床の黒いものは、醤油・・・。その中で、夫の飼っていた熱帯魚が何匹も死んでいました。

食器のほとんどは割れ、ガラスの破片だらけで、足の踏み場もなくて。


すぐ食べられそうなもの、貴重品は、持って出ることにしました。



つづく。