もう12年になります。
1995年1月17日。
その日、私は関東へ出張の予定でした。
早朝、すんごい夢を見て起こされました。
でも、それは夢では無く、家がグラグラ揺らされて起こされたのでした。
地震?
本棚が倒れていました。
「むっちゃ大きいやん!」その時はその程度でした。
TVを見ようと隣の部屋に行きました。
「停電やん。マイッタにゃあ。」
余震の心配があるのと、情報収集の為、外に出ました。
当時、私が住んでた家は前に畑があり、家の前は土の道でした。
地割れが入ってます。
周囲の古い家は瓦が落ちていました。
「こんなん初めて。大きかってんなあ。」と思いつつ、車に乗り込みラジオを聞くことにしました。
やはり地震の話題が出てましたが、ニュースでは無く非番のアナウンサーへの電話取材でした。
「家の本棚が倒れて整理が大変です。」な~んて言ってます。
結構明るくなったので家に戻りました。
停電は復旧してました。
TVのスイッチを入れた瞬間入った映像は、、、
ヘリから撮った<燃える神戸>でした。
実家は神戸です。
「大変やん!」
電話は通じません。
行くことにしました。
近所はたいしたことありませんでした。
が、少し南に走ったら阪急電車の高架が軒並み倒れてました。
国道2号線に出ました。
私の家の横を流れてる川の橋(と言っても道路そのものですが)に大きな段差が出来ていて渡れません。
少し東に戻って南下し、国道43号線に出ました。
阪神高速が崩れ落ち、バスが半分落ちかけていました。
「こっちも大変やん!」
会社の様子を見に行くことにしました。
全壊、半壊の家を見ながら会社に着くと建物は無事でした。
でも、、、中はぐしゃぐしゃ。。。
そして、社長夫妻の無事を確認したのち、神戸へ。。。
再び43号線に入ってすぐに見た景色は想像を絶するものでした。
軒並み倒れた阪神高速の高架。
何か、TVで見る遺跡の様に感じました。
幸か不幸か東行き車線側に倒れてましたのでそのまま進めました。
信号は機能していませんでしたが、早朝のこと、大した混雑も無く、お互い注意しつつ安全に走れました。
三宮に着きました。
ここは神戸の中心地です。
東京と比べるべくもありませんが、大きなビル街、古いビルの倒壊が目立ちました。
更に西へ。
火の海でした。
そして、ようやく実家にたどり着いたら実家の形はありましたが、屋根は落ちていました。
が、両親は居ません。
家の向かいに小学校(私の母校です)があり、避難していた両親を発見。
大渋滞の中、比較的落ち着いてる我が家へ移動しました。
無事たどりついてからの生活も大変でした。
道路は復興用車両優先の為、通勤は自転車。
電気は最初から修復されていましたが、ガスは約1ヶ月不通。
これはカセットコンロでどうにかなりましたが、問題は水。
水道復旧までの約3ヶ月、飲料水はポリタンで確保、トイレ用に川の水汲み。
これが毎日の日課でした。
風呂は隣の市まで行ってました。
水道が復旧した時は、ありがたさに涙が出ました。
でも、そんなありがたい水でも、いざ出たら平気でトイレで流す自分が居るんだろうなあって、、、
それは復旧前から分かってました。
人間、そんなもんです。
あれから12年。
今日はリュック背負って国道をひたすら歩く人達がいました。
マスコミは今年も神戸を取材しています。
私は、冷徹な書き方ですが、「もうエエんとちゃう」って思ってます。
そりゃ、大勢の人が亡くなりました。
でも、1年目に思い出したのは、93年に起こった北海道の地震です。
確か、津波で奥尻島の住民が200人程亡くなりました。
その事件は1年目から、マスコミからは忘れ去られています。
都市で何千人規模の地震だったから注目され続けていますが、人数の問題では無いと思います。
何処で何万人、何百万人死のうが、個人にとっては、自分の家族1人の死の方が大きいと思います。
それを考えたら「もうエエんとちゃう?」そう思う訳です。
自分の家族が亡くならなかったからそんな事書けるんじゃない?
って思われる方もいらっしゃるかも知れませんね。
実際そうかも知れませんが、自分ではそうでは無いっと思います。
(本当のところはわかりません)
まだ、あの日から時間が止まってる方もいっらしゃるかと思いますが、前を見て生きて欲しい。
そう、切実に思っています。