アメンヘテプ3世のつづき。

一番ややこしいので長いです。笑い泣き

諸説ありますが、私は日本におけるツタンカーメンの研究の第一人者

金沢大学の河合望先生の説押しです。ラブ

河合先生のお話はとても面白いので、またセミナーやシンポジウムを拝聴しに行きます✨

優しくて紳士で素敵な先生です。おねがい

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10・アメンヘテプ4世(アクエンアテン)

前1352~1335(治世17年)(死亡40歳位)(即位はおそらく23歳くらい?)167cm

 

父アメンヘテプ3世、母ティイ

妻4人

1.ネフェルティティ(ネフェルトイティ)(6人の娘を生む)(絶世の美女)

最初の頃から彼の第一の妻。

彼女は王の娘や王の姉妹のと呼ばれた事はないので、王の血を引く女性ではなかった。

治世13年に3人の娘が他界し、その後姿を消す。

(次女メケトアテン、5女ネフェルネフェルウラー、6女セテプエンラー)

おそらく死亡。アマルナの都を何らかの伝染病が襲ったようです。埋葬用のシャブティ像がアマルナの王墓から出土しているだけでなく、神殿や宮殿で名前が第1王女のメリトアテンに差し替えられているので。彼女には破壊活動の痕跡が見られない為、失脚ではないと思われます。

ネフェルティティの娘

上の3人はテーベで生まれた(治世4年までに)

1.メリトアテン、2.メケトアテン、3.アンケセナーメン(アンクスエンパアテン)

 

下の3人は、アマルナで生まれた(治世5年以降)

4.ネフェルネフェルウアテン・タシェリト(タシェリトはJr.という意味)

5.ネフェルネフェルウラー、6.セテプエンラー

 

2.キヤ

 『大いに愛されし者』という称号を持つ。ミタンニ王国のタドゥヘパでは?とも推測されていましたが、外国人である証拠は何も無い為、おそらくエジプト人です。

彼女が表舞台に登場するのは治世9年以降。

治世9年から10年頃王に寵愛を受けていましたが、治世11年に寵愛を亡くし姿を消す。(おそらく死亡)碑文も抹消され、メリトアテンの名前に置き換えられています。彼女の為に用意された副葬品と棺も他の人物に使われたので、寵愛を失くしたと言われています。

 

王との間にもうけた娘とともに壁画に一緒に描かれています。

金張りの象嵌が施された人型棺がキヤの為に用意されていましたが、この棺はアクエンアテンの再埋葬の為に再利用されていました。キヤのカノポス容器もアクエンアテンの再埋葬用に転用されています。

 

3.Younger Lady(姉妹)158cm ツタンカーメンの母でありアクエンアテンの実の妹。

アメンヘテプ3世とティイには8人の娘が居ました。上の3人、サトアメン、イシス、ヘヌトタネブは結婚していた為、ネベトイアハかべケトアテンの可能性が高いと言われています。

死亡推定年齢は25~30歳、生前に受けた外傷が酷く死亡。殺害か戦車事故。

この可能性が高い2人は重要人物ではなかったようで、テーベでもアマルナでも殆ど壁画には登場しません。

2018年にこのミイラから顔を復元していましたが、かなり論争がありましたねっ💦

 

4.娘メリトアテン(長女)

おそらく第1王妃ネフェルティティが亡くなり、母の代わりに国政を行う為に父と結婚。『偉大なる王妃』の称号と地位を得る。結婚はおそらく儀式的なもの。

その後、アクエンアテンは、息子のスメンクカーラーを共同統治者にし即位させ、異母兄弟のメリトアテンと結婚させる。彼女は2人の娘を産む。

(娘メリトアテン・タシェリト、娘アンケセナーメン・タシェリト)

その後、夫がなくなると、夫の改名した即位名(ネフェルネフェルウアテン)をそのまま使用して女王として即位します。彼女が亡くなると、弟のツタンカーメンが即位することになります。

 

2019年2月15日にMark Gabolbe博士がツタンカーメンのカノポス壺の中にあったカノポス小型棺の内側に、ツタンカーメンの名前の下に女王としてメリトアテンの名前があった事が判明したとニュースにUPされていました。ラブ

 

アクエンアテンのその他の子

息子

スメンクカラー?

ツタンカーメン(ツタンカーテン)

 

記念物には息子ではなく、娘たちが登場するケースが多いです。儀礼的な問題の為。

(ラメセス朝以前はどの記念物にも男の子はめったに登場しませんでした。)

なので、記念物から息子がいたか否かを決める事は難しいのですが、アマルナのブロックにはツタンカーメン王子は登場していました。

スメンクカーラーはそういったものが発見されていないんですよね。アクエンアテンの息子又は弟とも言われていますね。その話は後程。

 

アクエンアテンは娘たちと関係を持っていた?

アクエンアテンの墓に描かれた、次女メケトアテンの臨終場面に赤子の姿が描かれていることから、一般に彼女は出産で命を落としたという解釈がなされてきました。

そこから、アクエンアテンは上の3人の娘全てとの間に子を作ったという議論がなされました。しかし、絵の側に書かれた文字は、ネフェルティティを祖母と解釈する事も可能なので。

 

おそらく次女メケトアテンが死亡(父の治世12年なので12歳前)した時はまだ思春期に達していなかったでしょうし、3女アンケセナーメンも彼女たちの父親に関わる妻の称号を授けられていないので、おそらく娘たちとは関係を持っていなかったのではと思われます。

(でも頭イカレテタと思うので、あるかもしれませんね・・・ゲロー

 

メリエトアテン=タシェリトやアンケスエンパアテン=タシェリトは長女とスメンクカーラーの子ではなく、キヤの娘であったかも知れません。名前そのものが偽名で、他に名前を置き換えた可能性があります。

 

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ネフェルティティ(ネフェルトイティ)はアイの娘だったかも。

 

彼女はミタンニの王女説や、アクミームの貴族アイの娘だった説など色々ありますが、よくわかっていません。治世の初期からアクエンアテン王と対等な立場で表現されていることから、高貴な家柄の出身だったことが推測されます。

 

彼女にはムトネジェム(ムトベネレト)という名の姉妹がいました。2人の父親は分かっていません。手がかりは、テイという女性がネフェルティティの乳母だった事と、その人はアイの妻だったという事。

母はひょっとすると難産で命を落とした為、アイの後妻に育てられたのではないかという見解もありますが、証拠がないので、あくまでも仮説にとどまります。

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アマルナ改革

アメン・ラーの国家神に富が集中し強大になり、神官職は世襲化した為に腐敗し、王家との争いが凄くなりました。父アメンヘテプ3世は神官の勢力を削ぐ為、改革を行いましたが失敗に終わりました。アメンヘテプ4世は大胆な改革を行います。

 

今までのを一掃したかったアメンヘテプ4世は、首都をテーベから誰も住んでいなかったアマルナの『アケトアテン(アテンの地平線)』に移し、最高神アメン・ラーを排除し、新たな神アテンを掲げました。自らの名前もアクエンアテン『アテン神に有益な者』と改名します。神の声を聞くことが出来るのは、王のみとしました。

 

アマルナはカイロから322km離れた場所に位置し、少し小高い場所にあった砂漠地帯で、水の確保が難しく、手付かずの何もない場所に建設されましたが、都には推定2万人~5万人が棲み、大規模な宮殿や神殿が大急ぎで建てられました。人口のおよそ10%が裕福に暮らし、豪華な墓を作り、90%が共同墓地にむしろのような物に巻かれて埋葬されていました。

 

 

アマルナに都が置かれていたのはわずか17年間。

アマルナから出土された人骨の多くが子供たちの骨で、どれも栄養失調の痕跡が見られました。死亡年齢は7割が35歳までに死んでいて、50歳以上はわずか9体しかなく、3分の1以上が15歳になる前に命を落としていました。壊血病や、くる病を患った形跡がみられました。

 

別の墓地で135体の人骨を発見し、穴には副葬品が殆どなく、急いで埋葬されたようで、2~3人穴に放り込んでいたようでした。年齢も9割が25歳以下で、半数以上が7~15歳でした。若者たちは石灰岩の採掘場で作業に駆り出され、奴隷のように死ぬまで働かされたようです。

 

壊血病は、ビタミンCが欠乏し、血管や皮膚の張りがなくなり全身のあらゆる所から出血しやすくなり死亡します。

くる病は、ビタミンDが欠乏し、カルシウムやリンが摂取されず、骨が通常よりも柔らかくなって骨が変形しまう病気です。

 

栄養失調&発育不全、過酷な労働で、背骨が折れたり押しつぶされていることも多かった・・・そして死んだら、むしろでくるまれて穴にぽいって捨てられる・・・

かたやツタンカーメンの遺物を見ると贅沢の限りを尽くした副葬品ばかり・・・

私たちはツタンカーメンの美しい副葬品を見て素敵だねー!としか見ていませんが、その裏にはこんなにも苦しんで死んでいった子供たちが大勢居ました・・・。ショボーン

こんな悲惨な光景を見ていながら王に仕えていた後の王ホルエムヘブはどんな気持ちだったでしょうね。

 

アクエンアテン王は、古代エジプト人が人生のゴールと考えていた死後の世界を否定し、来世への復活は無いとし、アテン神以外の神を全否定しました。神の声が聞けるのは王のみとしました。神殿に勤めていた多くの人々は、神殿が閉鎖され職を失い、楽しみにしていた祭りは全部廃止されました。民は神に祈りを聞いてもらえなくなり、死後の世界も否定され・・・かなり恨みを買ったでしょうね。アマルナの王墓は全て燃やされています。

 

同盟国がヒッタイトにやられてしまい援軍を求めてきても、『アテン神の祝福を与え、平和を説いた』と記されています。ゲロー

神に祈っとくわって・・・。そりゃ外国からもエジプトに対する不満の声が凄かったでしょうね。

ゲロー

ホルエムヘブや後の王たちがもう二度とこのような事を起こさせてはいけないと、アマルナを排除していった気持ちが分かりますね。

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アクエンアテンの治世

 

治世1年(24歳頃)

カルナック神殿の南で塔門を完成させた。(後に取り壊された)

 

治世3年(26歳頃)

カルナックのアメン神殿の東に、すなわち日の出の方向に、アテン神殿(旧名のアテン神に捧げられる)とオベリスクを建立。この神殿レリーフではネフェレトイイティーが目立っています。

テーベでの3年間の治世の後王は最初のセド祭を祝いました。(治世4年の事か)

 

治世4年(27歳)

アテン神の祝祭を行う。(アメンヘテプ3世と共同統治を行い一緒に行った可能性実も)

長女も出席。これまでに3人の娘が生まれる。

 

治世4年と6年にアメンヘテプ4世は名前をアクエンアテン(アテン神にとって有益なるもの』)に改名し、アメン神との決別とアテン神への帰依を宣言した。同時にネフェルトイティの名前もネフェルネフェルウアテン(アテン神の美はうるわしい)という形容辞が追加された。

本来王の為に行われるセド祭がアテン神の為に挙行され、アテン神がアメン神に取って代わり神々の王になる計画が進む。

 

治世5年(28歳)

アケトアテン(『太陽円盤の地平線』の意)を建設し王都を移す(現在のアマルナ)

2.3年は王宮、神殿、政府官庁、居住地区などをつくる。 新都にはおそらく2〜5万人が住み、 アテン神の主要な礼拝地かつ王都としての役割を果たしましたが、メンフィスは国家行政の中心であり続けました。

 

治世8年頃(31歳)

ツタンカーメンが生まれる(母Younger Lady)

 

治世9年(32歳)

この頃からネフェルトイティの地位は急速に高くなる。

アテン神は進化し、『アテンから現れる光』お名において、地平線で歓喜する2つの地平線の支配者ラーとなった。

キヤは王に寵愛を受けていたことがわかる。(治世9~10年頃)

 

治世11年(34歳頃)

キヤは王の寵愛を亡くし、姿を消す。

アケトアテンの神殿や王宮に描かれた彼女の図像はメリトアテンの姿にとって代わられた。

 

治世12年(35歳頃)

西アジア、ヌビア、エーゲ海諸島をはじめとする諸外国から使節団がアケトアテンを訪問し、貢ぎ物を献上する儀式が行われた。

この治世12年を境に、アクエンアテン王の治世は陽から陰へと転じる。

エジプトと同盟関係にあった、シリアのミタンニは、ヒッタイトの侵入に屈し、アクエンアテンの治世第12-14年頃、首都ワシュカンニが陥落した。こうして、ミタンニはヒッタイトと属国となった。さらにヒッタイトはエジプト勢力圏の一部にも侵出し、それまでエジプトの支配下にあったシリア・パレスティナ諸候のあいだには動揺が広がり、ヒッタイト側につく者、混乱に乗じて独自に勢力の拡大を図る者がいた。

このような状況になり、シリア・パレスティナ諸候は、アクエンアテン王の治安の安定のためにエジプト軍の派遣を求める書簡を送り続けたが、王は少数の軍隊を派遣するにとどまった。

 

当時のエジプトは、ヒッタイトとの外交関係があったために、微妙な立場にあり、大規模な軍事遠征を行うのが難しかった。結果的に、北シリアの領土を失い、西アジアにおける威信は低くなってしまった。

 

この年にアテン大神殿は破壊され、再建されたことが判明している。

アクエンアテンは破壊した石像の残骸を新しい神殿の土台にしていた。

(再生復活を願ったのか)

 

治世13年(36歳頃)

ネフェルティティを共同統治者にした。(おそらく国中の至る所で王に対する反発があり、間に立って行動する人物が必要だったのでは)

3人の王女が亡くなり、その後ネフェルティティもおそらく亡くなる。

王の母ティイがアケトアテンを訪問した。

 

治世14年(37歳頃)

ネフェルティティの代わりとして、スメンクカラーを共同統治者にする。アクエンアテンの長女メリトアテンと結婚する。

 

治世15年(38歳頃)

スメンクカラーはなんらかの理由により、ネフェルネフェルウアテンと改名する。

 

治世16年(39歳頃)

スメンクカラーが亡くなると、王妃メリトアテンが同じ即位名で、アクエンアテン王の共同統治者としてネフェルネフェルウアテン女王となる。

 

治世17年(40歳頃)

アクエンアテン王が他界する。

ネフェルネフェルウアテン女王が単独統治を始める。(3年間)

 

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11・スメンクカラー(アンクケペルウラー)/ネフェルネフェルウアテン(娘婿)

前1336~1335?(治世3年)

 

・ヒッタイト新王国隆盛(シュッピルリウマ1世の治世)

・アメン神官団たちと和睦を図る

・アクエンアテンの息子?

 

アクエンアテン王は、自身の治世の晩年にスメンクカラーを共同統治王に任命しました。

素性は明らかではありませんが、第18王朝の慣例に従い、アクエンアテン王の長女、メリトアテンと婚姻することによって即位する事が出来たと考えられます。

 

共同統治に任命したのは、既に中王国時代から前例があるように、王位継承をスムーズにするために世継ぎを自分の在位中に即させたいという理由だけでなく、よきパートナーであったネフェルトイティ王妃を失ったからともいえます。(治世13年)しかし、この王の治世を示すワイン壺は、治世第1年のものだけで、彼の名を記した記念建造物は殆ど残っていない事から、王は短命であったと考えられます。

この絵はスメンクカーラーともツタンカーメンとも言われていますねっ。

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12・ネフェルネフェルウアテン(ネフェルティティ)即位名(アンクケペルウラー)

前1335~1333(治世3年)

12は名前を変えたスメンクカラー王では?

名前を変えた事で、再生復活をしたという事では?その後、スメンクカラー王が死去した為、王妃であり、アクエンアテン王の長女のメリトアテンが王位についた可能性があります。

 

 

この即位名はスメンクカラー王の即位名と同じ『アンクケペルウラー』という男性形の綴りと、アンクの後ろに女性形の語尾  の綴りで『アンケトケペルウラー』と記される2つのパターンがあります。同じ王名にもかかわらず、男性形と女性形の即位名が見られる事から、同名の女王の存在が確実視されるようになり、同じ名前のファラオが二人いたことが明らかに有っています。

その後、王位が弟のツタンカーメンに継承されたという事だと辻褄があうとの事です。

(河合望先生より)

 

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長くなったので、DNA鑑定とアクエンアテンの墓と石棺は次回に書きます。

 

参考資料

Amarna Project

Amarna 40 Years

・The Metropolitan Museum

The Royal Women of Amarna: Images of Beauty from Ancient Egypt

・Ancient Origins 

Bust of Contention: Nefertiti’s sculpture raises issues of Race and Color—Part II

・The Oriental institute The University of Chicago

『Ray Johnson on the Forensic Reconstruciton of the "Younger Lady"』