第1塔門を通り抜け、第1中庭に入ってきました♪走る人

この中庭の北側(左)と南側(右)の壁と列柱は第22王朝(BC945-715)に建設。

第22王朝はリビア人またはブバスティス出身のファラオたちが建設したので、『ブバスティス・ホール』と呼ばれています。

私は年代毎にこの王様の時代はここまで建設されていたんだなぁってその当時を想像するのが好きですラブ

 

あと、石の種類やどこの石切場から切り出し、どの様に運んだのかとか、その時代の諸外国とエジプトはどの様な関係だったのか。とか考えながら見るのが好きなんですちゅー


この第一中庭だと、

現代→ 修復時 → 古代と遡っていきます。


フランスの考古学者ルグランが(1895-1920)第1塔門、その背後の前庭、ラムセス3世の神殿、セティ2世の神殿、前庭列柱とスフィンクス、第2塔門と修復。
コレ

J・K・シャンポリオン(1828)がカルナックを訪問。
(ヒエログリフ解読(1822)から6年後の事。長年の夢であったエジプトへの調査旅行を果たし、記念に神殿の柱に名前を刻む。)
コレ

ナポレオン遠征(1798-1799) →ナポレオンのエジプト遠征に参加した多くの学者達が調査をしている。
『ナポレオン エジプト誌』や『ナポレオンのエジプト―東方遠征に同行した科学者たちが遺したもの』に載っている内容を思う浮かべる。

コレ

第1塔門建設途中

プトレマイオス朝時代に第2塔門などの壁面の装飾。
タハルカの柱の名前をプトレマイオスに変更。

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第1塔門の斜経路にネクタボ1世の名前が残っている(第30王朝)

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タハルカ(第25王朝)がキオスクを建てる

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シェションク1世(第22王朝)ブバスティスの門と中庭、第一塔門を建設

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パネジェム1世(第21王朝)ラムセスの立像の名前を自分の名前にする。

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ラムセス3世(第20王朝)小神殿を建設

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セティ2世(第19王朝)聖船休息所を建設

コレ

ラムセス2世(第19王朝)立像2体とスフィンクス参道を建設

 

中庭として囲われたのが、22王朝なので、セティ2世の聖船休息所や、ラムセス3世の小神殿はもともと、神殿の外側にあり、ラムセス2世のスフィンクス達が第2塔門から繋がっていたのを想像し楽しむラブ・・・って感じです。ドキドキ

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第一塔門の内側壁面に接して泥レンガで作られた建設用傾斜路が今も残っています。


この塔門が未完成に終わってしまったので、傾斜路も放置されてしまいました。でもこれが残っているおかげで、古代エジプト人がどのように巨石建造物を建てたのかを知る事が出来ます。

 

 

第1塔門入って右側の壁面と列柱廊。

第22王朝シェションク1世建設。ラムセス2世のスフィンクスちゃん達が隅っこに追いやられています。元々は中央に並べられていました。

 

1870-1875年頃 土砂に埋まっています。

 

1933-1934 瓦礫を撤去。詳細はこちらの論文https://www.nakala.fr/nakala/data/11280/a3f4d50a

 

 

閉花パピルス柱。

奥に見える未完成の円柱からは、エジプトの石工の作業方法がよくわかります。


柱の建て方のHP
荒く切り出した石材を積み重ねていき、必要な高さまで積みあがった所で、整形と仕上げの作業が上から下へと行われました。
繋ぎにはモルタルを使用。ちなみに、柱によっては一つの石材から造られているものも有ります。凄いですよねー。


石材や建築については
西村洋子先生のHP
西本真一先生の本『ファラオの形象』に載っています。
 

第一中庭の北側(左)にセティ2世の聖船休息所があります。

(第19王朝 在位BC1199ー1193)聖舟祠堂ともいう。同じです。

花崗岩と砂岩で作られていました。

3つの部屋は
国家神アメン神(中央)、その妻のムート女神(左)、息子のコンス神(右)の三柱神の儀式用の聖船が納められていました。

入り口のレリーフ、彫りが浅いわぁ。

ムト女神とファラオ

ファラオとモンチュ コンスじゃないんだ。

建物の内部には、像を安置する為の祭壇のような台が設けられていました。(壁龕-へきがん) かつて、王の彫像が納められていたそうです。

この部屋小さく見えるけど、結構広かったなぁ

羊の頭部のある聖船はアメン神、女性の頭部はムート女神
ハヤブサの頭部はコンス神の船を置いていました。

アメン神の聖船のレリーフ美しいラブ

息子のコンス神の聖船のレリーフ

セティ2世の聖船休息所の向かい側には、
ツタンカーメンの特徴を示す小さなスフィンクスがありました。

 

第一中庭の右側には、ラムセス3世の小神殿が有ります。

中に入ります。

ラムセス3世がメディネト・ハブに造営した葬祭殿の縮小版として設計されています。

左側


右側

この第一中庭にはオシリス姿をした王の像が並び、壁面には様々な祭礼の場面や碑文で飾られています。
中庭の先には前廊と小さな多柱室、そして奥はテーべ三柱神(アメン、ムート、コンス)のための聖船休息所が有ります。

そして左奥の部屋に可愛いコウモリちゃんが居ました♪
フンが厄介だけど、可愛いかった♪

 

外に出ててきました。走る人

中庭の中央にはヌビア系ファラオ、タハルカ(第25王朝 在位BC690ーBC664)の巨大なパピルス柱が1本と大きな祭壇状の方解石ブロックがあります。

本来は10本の柱とそれらを結ぶ低い仕切壁からなり、東西の端に出入口のある建物が建っていました。
この建物は聖船休息所であったとされることが多いのですが、露天構造であったので、おそらくデンデラで行われていたような、「太陽との結合」の儀式に結びつく特別な目的として使用されていたとも言われています。

 

タハルカの開花パピルス柱。

一番上の部分にカルトゥーシュ発見♪
あれ?よく見るとプトレマイオスと彫ってあるー!!びっくり

 

大きな祭壇状の巨大一枚岩の方解石ブロック。

方解石はこの辺ではとれないので、おそらく約600kmほど離れた下エジプトから船で運ばれてきたと思われます。大変だったろうなぁ。方解石は比較的柔らかい石でヒビ割れしやすいんです。硬度3
image

 

ラムセス2世の2体の花崗岩の巨像のうち、ベントアンタ王女の像が立っている方は、第21王朝初めにテーベの神官長パネジェム1世(Pinedjem I)とその妻ヌートターウィ(Henuttawy)に奪われました。パネジェム1世には3人の妻がいて、ラムセス11世の娘(Duessathor-Henuttawy)とも結婚しています。

同じポーズで爆  笑
私の身長が150cmなのでサイズが分かるかと。

 

このベルトの部分には、【アンク・ヘムネチェル・テピメリィアメン】と彫られていた。パネジェム1世!?(Pinedjem I)

ラムセス2世の像なんだけどぉぉぉぉ!!!

 

美しい✨

 

このラムセス2世像の後ろには折れたオベリスクがありました。

おそらくトトメス3世の物。サーラーはトトメス3世。ネスウビイトが・・・あれ?

そして単体だと小さく見えるのに、めっちゃデカいです!

 

次は正面の第2塔門、そして右側のブバスティスの門に行って、正面の大列柱室はまた後にして、左側の野外博物館へ行きます!

Belzoni Giovanni Battista(1778-1823)

1862-1863年 Frith Francis ナポレオンが訪れた時はこんな感じだったでしょうね。

 

ナポレオン遠征の時の復元図

第2塔門を創作して描かれています。

Jumard.M (Edme. Francois 1777-1862)

 塔門の装飾は、ルクソール神殿のカディシュの戦いのシーンが描かれていますし、タハルカの柱も実際は10本ですが、ここでは12本描かれています。創作された図ですが、旗が正面高く掲げられて、全盛時のエジプトの大神殿の堂々とした姿を思い起こさせます。

 

修復中の写真 中央にレーンがあるのは、石材を貨物車で運んでいた為です。

 

1899年の柱の修復の様子。奥に見えるのがブバスティスの門。

重機のない時代。大勢の人たちが縄で引っ張って修復を行っています。

 

1929年修復写真 タハルカの柱

タハルカ王が建てた柱廊の内唯一残ったものですが、安全上の理由で一時撤去されていましたが、のちに再建されました。

詳細はこちらの論文(1928-1929)

https://www.nakala.fr/nakala/data/11280/83029035

 

 

さてと現代に戻って。

 

第2塔門

ホルエムヘブ王が建設を行いました。装飾は次の王ラムセス1世が完成させました。

ラムセス2世もまたいくつかの装飾を行い、すべてのカルトゥーシュを自分の名前に置き換えました。 内部はアクエンアテン王が、アメン神殿の東に建てたアテン神殿の石材で埋められていました。 


テーベ三柱神に捧げ物をする王のレリーフはプトレマイオス時代に追加されました。

 

アメン=ミン神の後ろにはレタス菜が生えてます。プトレマイオス朝時代はこの絵柄が好きですねー。

かなり削られちゃってますねー

大列柱室。圧倒されるびっくり

一般的にはこのまままっすぐ大列柱室を抜けてどんどん進みますが、私は今回の旅行は野外博物館へ先に行ったので、ここについてはまた後でUP。

この写真は11月5日の早朝の。早朝の神殿マジいいよー!

 

第ニ塔門の右側のラムセス2世の立像。
その後ろに見えるのがブバスティスの門。
右側の壁はラムセス3世の小神殿

 

1808-1828 Jumard.M (Edme. Francois 1777-1862)ナポレオン遠征隊員の研究者が1人、この像を見上げていますが、エジプトよりもパリの冬に相応しい服装をしています。この時はまだ頭部は何処かに落ちてたんですね。現在は修復されています。

石像の足元側面には王女ビントアナトのレリーフが描かれています。

 

「ブバスティスの門」(砂岩)

シェションク1世(第22王朝 BC945-924)が建設しました。
22王朝は200年続き、皆、東デルタのブバスティス出身者でリビア人の血を引いています。 リビア人ですが、元はリビア人からの守りを固め、エジプト国内の治安を守るために雇われました。

政治家だったので、テーベとタニスに分割された国を一つの国にし、海外遠征をし国土を拡大しました。 
ユダ国とイスラエル王国を破り、ラムセス3世以来の大勝利をおさめたので、記念にこの門と中庭、第一塔門を建設しました。 

門の南壁の外面にはアメン神の恵みを受けて勝利したシェションク1世(捕虜を打ち据える)と、 ユダ王国(今のパレスティナ)に対する勝利のしるしとして、擬人化された征服された諸都市を差し出しています。この軍事遠征で、ソロモン王の息子レハブアム王の時代にエルサレムも征服され、神殿の宝物が略奪されました。 
これは旧約聖書の(列王記 上 14章25-26節)で名高いシェションクを描いた有名な場面です。 

(旧約聖書ー列王記 上 14、 25-26)

14:25レハベアムの王の第五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきて、14:26主の宮の宝物と、王の宮殿の宝物を奪い去った。彼はそれをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をみな奪い去った。

 

都市テーベを擬人化した女神ウァセト(右)。

捕虜の形にカルトゥーシュが刻まれて切るのは、制圧した都市を意味します。女神ウァセトは、テーベのファラオ達の軍事力を象徴する弓矢と斧を携えた好戦的な姿で現されています。この女神は『力強き夫人』を意味します。

 

 

捕虜の図 、みんなすごい顔してるゲロー

この穴はなに?と、よくこんなに壁画が綺麗に残ってるね。と質問があったので。

砂岩でもよく残っているのは、雨量の少ない気候と乾燥地帯である事と砂に埋もれていたからだと思われます。

 

壁にいくつか穴が開いていますが、おそらくこの付近まで砂に埋もれていて、馬をつなぐために開けられた穴だと言われています。

19世紀はこのカルナック神殿で遺跡盗掘が繰り返し行われていたので、弾丸あとがあっても不思議ではないですっ。

さぁ第一中庭に戻ろう

 

ブバスティスの門の右側の壁面

第一中庭を堪能したら、奥に見える入口から野外博物館へ♪走る人

 

続く。