現在、抗NMDA受容体脳炎を患っているご家族を看病されている方へ、何か少しでも参考になることや情報をお届けできればと思い、このブログを書くことにしました。

 

 

    2024年1月9日早朝、三日前から熱を出して寝込んでいた娘は、熱が下がったことで、仕事始めに出かける準備をしていたのですが、娘の旦那さんから「化粧の仕方が分からないと言い出して、何か様子がおかしい」と連絡が入りました。私はすぐに娘の家へ向かって、救急車を呼びました。その時点では、普段と様子は違うものの、娘は救急隊員の方の質問に自分で答えていました。娘は大きな総合病院へ運ばれました。私は、娘を連れて帰る際に車が必要になるかもしれないと思い、救急車には同乗せず、自分の車で救急車の後からその病院へ向かいました。今から思えば、その時は、事の重大さを全く把握しておらず、まさか、一年近くも入院することになるとは、思いもよりませんでした。

    娘は救急病棟に搬送されてすぐに様々な検査を受け、髄液検査の結果、脳に炎症があることが分かりました。午後になって漸く娘に面会できましたが、その時はもう会話が支離滅裂になっていて、私はとても動揺しました。最終的に婦人科の先生が、特に若い女性で卵巣奇形腫によってこのような症状が現れることがあると、MRI検査をしてくださいました。その結果、卵巣奇形腫が見つかり、その日の深夜、緊急手術で左卵巣を摘出することになりました。仕事の後に病院へ駆けつけた主人と私が病院を出たのは夜中で日付が変わっていました。

    1月10日、コロナ後の影響で面会時間やルールが厳しい中、午後三時に面会に行きました。娘は、昨夜の手術以降、意識がありませんでしたが、私の呼びかけに一瞬目を覚まし、「お母さんありがとう、そうやったんやね、お母さんありがとう」と繰り返しながら、上半身を起こして私に抱きついてきました。驚いて何か言葉を返そうとした次の瞬間、娘は目を閉じて、自らまたベッドに横になりました。そして今度は、「いいなぁ、ここ。気持ちいいからずっとここでいいわぁ」と言って、そのまま、また意識を失ってしまいました。それから数カ月間、意識が戻ることはありませんでした。そして、この日からステロイドパルス療法が始まりました。

 私は、後に何度もあの時の「そうやったんやね」はどういう意味だったのか、「気持ちいいからずっとここで」とはどんな感覚だったのか、娘に尋ねましたが、もちろん、娘は、そう言ったことも、そう感じたことも、全く覚えていません。私は、以前、「奇跡の脳」という本を読んだことがあり、著者で、脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士自身が、脳卒中で左脳の機能を失ったとき、「至福の時が訪れた」と書かれていたのを、その場で思い出していました。そして、すぐに娘の左脳にダメージがあったのかもしれないと直感し、体が震えたのを覚えています。

    1月11日、娘はベッドの上で、意識がないまま三十二歳の誕生日を迎えました。そして、その日に、娘の病名は抗NMDA受容体脳炎と主治医から告げられました。

    1月13日、夜中の三時に病院から電話が入り、痙攣がひどいため、口から管を通して人工呼吸器を装着する旨、連絡がありました。集中治療室に移り、以後、痙攣があると、鎮静剤が投与されました。

    1月17日、不随意運動と、体の硬直を繰り返し、目が少し開きました。

    1月23日、気管切開をし、カニューレを挿入。口からの管を取り外し、気管へ直接酸素を送るようカニューレに人工呼吸器に繋ぎ直しました。

    1月31日、不随意運動が激しく、舌を嚙まないようマウスピースを作ってもらいました。気管切開部から出血がありました。

    2月4日、熱が下がらず、熱が上がると痙攣がひどくなるため、娘は冷却シートの上で寝かされるようになりました。十五度以下に設定されたシートがあまりにも冷たく、風邪を引かないか心配しました。

    2月14日、主治医から保険適用外のリツキシマブという治療法について説明がありました。私は、入院直後からネットでその治療法を知り、ずっとその治療法の開始を希望していました。その病院では、抗MNDA受容体脳炎の患者にその治療を行った例がなく、副作用を心配されていたようで、なかなかその治療に踏み切れなかったようです。

    2月27日、漸くリツキシマブ投与開始。その間も三十八度から三十九度の熱が続いていました。

    3月5日、二度目のリツキシマブ投与開始。娘は、依然意識はなく、痙攣や不随意運動が頻繁に見られる状態でした。

    3月8日、肺炎のため、リツキシマブ投与を一旦停止することになり、冷却シートの温度設定が二十度~二十五度に上がりました。

    3月14日、熱が39度7分まで上がり、再び冷却シートが十五度設定になりました。

    3月18日、リツキシマブ投与再開。

    3月23日、娘が目を大きく開けて、私を見つめていました。それまでにも、目を開けることはありましたが、視線は定まらず、どこを見ているか分からない感じでした。

    3月25日、しっかり私を見つめ、私がピースをしてみると、それを真似て、娘もピースをしました。恐らく、実際は、したように見えたというのが正しいかもしれません。

    4月1日、私を見ながら、足をバタバタさせていました。

    4月2日、子供達が映ったビデオを見せると、泣いていました。この頃から、娘が何かを感じ始めていると確信するようになりました。

    4月13日、面会に行くとベットの上に座っていたのでびっくりしました。でも、反応はなく、ただ、ぼーっと遠くを見ていました。熱がない日は、入院直後から、理学療法士の方が手足や体を動かすリハビリをしてくださっていました。

    4月19日、ICUから一般病棟のナースセンター前の個室に移動。

    4月30日、人工呼吸器が外れて、自発呼吸。

    5月2日、私が笑うと、娘も笑っていました。少し表情が出てきたように思います。

    5月11日、主人が夜に面会に行った際、うなずいて話を聞いていたように見えたと話していました。私達の希望が、娘の反応をそのように見せていたのかもしれません。

    6月に入る頃まで一進一退を繰り返していました。娘の旦那さん、主人、息子(娘の兄)、そして私が、許される面会時間をフルに活用して、話しかけ、音楽を聞かせ、ラジオを聞かせ、子供達のビデオメッセージを見せ、マッサージをし、様々な刺激を与え続けました。

    6月3日、私が娘の手を握ると、強く握り返してきました。私の話を聞いて涙を流していました。

    6月4日、主治医が、娘が寝ているベッドを挟んで、私に「痛みが伴いますが、再度、髄液検査をしてみようと思っています」と話しかけました。すると娘は足をばたつかせ、怒った顔で抵抗を示しました。娘は私達の会話を理解しているようでした。先生も私もしばらく見つめ合ったまま言葉が出ませんでした。

    6月13日、主治医から、呼びかけに応じて手を上げ下げし、足を動かすことができたと聞いて、信じられない思いでした。

    6月29日、グー、チョキ、パーができました。主治医によると、脳波が少しずついい状態になってきているそうです。

    7月1日、私をはっきり母親と認識していると分かりました。歩行訓練開始。

    7月9日、歩行器を掴んで廊下を歩くことが出来ました。

    7月23日、ひらがな表を使って、意思疎通できました。子供達の名前を言うと、写真を指差していました。

    8月に入ってからも、意識がはっきりしている日と、ぼんやりしている日が交互にあり、眠っている時間がとても長く、起こしても目を開けようとしませんでした。

    8月10日、看護師さんに手伝ってもらって、部屋の中にあるトイレで排尿が出来ました。起きているときは、ベッドではなく、車いすに座っているようになりました。

    8月20日、個室から大部屋に代わりました。

    8月22日、五歳児用のパズルを40分かけて完成させることができました。

    9月2日、娘は、入院後初めて自分の住所や電話番号を思い出しました。

    9月3日、カニューレを抜いてもらい、自然に傷口が閉じるのを待ちます。

    10月5日、娘は入院が長期に渡っていたため、特別に、子供達と5分間のみ面会を許されました。娘は終始笑顔で、子供たちは帰るのを嫌がりました。十か月ぶりの再会でした。

    10月17日、待ちに待った退院の日でしたが、そのまま、すぐ隣のリハビリ病院に転院となりました。娘はそこで、理学療法、作業療法、言語聴覚療法と、様々なリハビリのプログラムを毎日、二カ月間受けました。

    12月16日、六カ月間のリハビリ予定を切り上げて、退院。そのリハビリ病院でも一切、子供達との面会が禁止されていたので、娘の為にも、子供達の為にも、自宅でのリハビリを選択しました。娘は家に帰ると、子供達に次々と話しかけられ、料理や、洗濯など家事を強いられることになり、何よりのリハビリになり、日に日に目に見えて回復していきました。娘のケースに限っては、結果的に、早く切り上げて家に連れて帰ったことは正解だったと思っています。

    2025年1月9日、退院後、初めて外来での診察。娘の回復ぶりに主治医の先生がとても驚いていました。娘は気管切開後、声があまり出なくなっていましたが、経過観察することで、病院を後にしました。

    3月19日、外来で脳波の検査。まだ完全ではないものの、少しずつ正常に戻ってきているとのことでした。

    3月21日、気管切開後の傷跡を形成外科で診てもらいました。

    3月25日、耳鼻科で診察。気管切開の傷口が完全に塞がっていなかったことが判明。

    4月15日、気管切開の傷口の縫合と傷口をきれいにするための手術を、耳鼻科と形成外科で続けて受けました。その後、何度か外来で診察を受けました。

    12月11日、全ての外来診察終了。この時点でも、娘の声は以前とはすっかり変わったままでしたが、異常が見当たらないとのことでした。

 

    2026年6月現在、娘は車の運転をし、犬を飼い始め、誘われると友達とも外出できるようになりました。全ての家事を一人でこなしています。後遺症として、退院時に高次脳機能障害の診断書を頂きました。現在もいくつかの変化は残っていますが、いずれも日常生活に大きな支障をきたすものではありません。また、それらの多くは病気以前から娘に多少見られていた傾向でもあります。今では、私が手伝う機会も減り、毎日家族と元気に過ごしています。

    今振り返ると、娘の回復の転機は、リツキシマブ投与後しばらくしてから現れ始めたように思います。発症から約二か月間はほとんど変化が見られず、家族としては先の見えない不安な日々が続きました。しかし、三月下旬頃から視線が合うようになり、四月には感情表現が見られるようになりました。そして六月には簡単な指示に応じられるようになり、その後は少しずつではありますが確実に回復していきました。

    抗NMDA受容体脳炎は回復までに長い時間がかかる病気です。目の前の状態だけを見ると絶望的に感じることもあるかもしれません。しかし、娘の経験から言えるのは、回復はとてもゆっくりであっても、少しずつ進んでいくということです。

 今、闘病中のご本人やご家族の皆さまが、どうか希望を失わずに過ごされ、一日でも早く快方に向かわれますことを心よりお祈り申し上げます。