壬申の乱(じんしんのらん)とは672年、天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)と天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で皇位継承をめぐり勃発した争いのことです。
では、壬申の乱について、もう少し詳しく見ていきましょう。
白村江の戦いの後、中大兄皇子は668年。天智天皇(てんじてんのう)として即位します。その僅か3年後に病死してしまいますが、その後継者任命がことの始まりです。
天智天皇は、後継者の有力候補だった弟の大海人皇子を差し置き、自分の子、大友皇子を後継者として指名しました。
この大海人皇子(弟)とは、大化の改新では兄を助け、人望が厚く、彼に心を寄せる豪族達も多くいたといいます。大海人皇子は、兄が自分の事を快く思っていないことを知り、吉野という場所へ隠棲していましたが、これは時を待ち、チャンスを伺っていたとも言われています。
そして、天智天皇の死後、この後継者の大友皇子と大海人皇子の対決は避けられないものになっていくのです。
天智天皇の死後、かつての彼の政治に対する不満が爆発します。(戸籍の作成や白村江での大敗など)。
このチャンスを大海人皇子(弟)は、逃しませんでした。
では、壬申の乱について、もう少し詳しく見ていきましょう。
白村江の戦いの後、中大兄皇子は668年。天智天皇(てんじてんのう)として即位します。その僅か3年後に病死してしまいますが、その後継者任命がことの始まりです。
天智天皇は、後継者の有力候補だった弟の大海人皇子を差し置き、自分の子、大友皇子を後継者として指名しました。
この大海人皇子(弟)とは、大化の改新では兄を助け、人望が厚く、彼に心を寄せる豪族達も多くいたといいます。大海人皇子は、兄が自分の事を快く思っていないことを知り、吉野という場所へ隠棲していましたが、これは時を待ち、チャンスを伺っていたとも言われています。
そして、天智天皇の死後、この後継者の大友皇子と大海人皇子の対決は避けられないものになっていくのです。
天智天皇の死後、かつての彼の政治に対する不満が爆発します。(戸籍の作成や白村江での大敗など)。
このチャンスを大海人皇子(弟)は、逃しませんでした。
| 大海人皇子は、隠棲していた吉野を出て自身の領地のある美濃へ出発します。初めは、賛同する兵も多くはありませんでしたが、伊賀、伊勢を通り美濃にたどりつくまでには、かつての政治に不満をもっていた豪族らを次々に味方につけ、あっという間に圧倒的な兵力を手に入れてしまいます。そして、大海人皇子は、その兵を琵琶湖を挟むように二手に分け進攻させていきます。 大友皇子(天智天皇の子)側も進撃体制を整え、防戦しますが1ヶ月の後、琵琶湖の南に位置する瀬田での戦いで大敗を喫すると、その翌日、山前(琵琶湖の南西辺り)で大友皇子は首をくくって自害することになるのです。25歳という若さでした。 この叔父と甥が皇位継承をめぐって激しく激突した争いを壬申の乱といいます。 その後、勝利した大海人皇子は 参考元サイト http://www12.plala.or.jp/rekisi/jinnsinn.html |