先日は、メロスピ祭ということで、クサっぱやいのがお好みの猛者達様に大層盛り上げて頂きまして、本当に最高のステージにすることが出来ました。改めてありがとうございました。


で、MCでも話したんですが、この曲の歌詞解説がどんどん収拾の付かない方向に向かってまして、今回は所謂国学というものが実は日本という国独特の民主主義的な発想の源流の一つなんじゃないかということについて書いてみました。すみません。




国学と言うと、むしろ悪名高き国家神道の源流じゃないかと思われるかもしれません。
実際、昭和維新とか尊皇とか言っているので、そういう意味ではそうなんでしょう。ただ、彼等が訴えていた実に民主的な訴えというのも国学由来なのではないかと思うのです。


国学と一口に言っても本居宣長以降様々な学派があるので、一概には言えませんが、やはり豪農層の教養として広く浸透した平田派国学の影響は大きいと思います。


天保年間である1841年、土佐国の土佐・吾川・長岡郡の庄屋達の間で交わされた「天保庄屋同盟」という約定があります。


「万葉集古義」で知られる土佐を代表する国学者・鹿持雅澄に師事した細木庵常という庄屋の指導によるものですが、その内容のインパクト故に、司馬遼太郎などもしばしば著作中で言及していることでよく知られています。その内容とは、


農民、百姓は太古より天皇の「おおみたから=大御宝」である。そして、その百姓をあずかる庄屋という役職はまさに天皇より直に与えられた神聖な職であり、そういう意味では同じように天皇に役職を賜る将軍と何ら立場は変わらない。将軍やその陪臣の大名づれに何を偉そうにされる理由があるのか。もし上士が理不尽な仕打ちを仕掛けてきた場合は討ち果たしても良い、と宣言したものす。


坂本竜馬関係の本を読めば必ず出てくる井口村刃傷事件というのがありますが、これは上士と呼ばれた土佐国の大名・山内家の家臣が、下士と呼ばれた下級の侍を無礼討ちにした事件です。

山内家は関ヶ原の戦いで徳川家に与したことで土佐国を与えられましたが、その際、それ以前に土佐国を領していた旧長宗我部家の家臣達に対して壮絶な弾圧を加え、旧長宗我部家の家臣達は足軽のような下級侍に甘んじたり、帰農し庄屋になったりしましたが、上士は下士や農民などを殺傷しても咎められないというような激しい差別があったのです。

こうした事情が天保庄屋同盟結成の背景となりました。そして、鹿持雅澄の甥・武市半平太や庄屋層出身の中岡慎太郎や吉村虎太郎等により土佐勤王党が結成され、土佐藩としての尊王攘夷運動が展開されます。さらに、この思想的背景は明治後に土佐を自由民権運動の中心地たらしめることとなります。


国学の大成者である本居宣長は、著書「玉くしげ」の中でこんな感じのことを述べています。

中国等の外来思想が入る前の日本は、神が先例に倣い物事を決め、それでも解らないことは占いで物事を決めたが、臣下万民は皆一様に心が素直で正しかったので神の御心を自分のこととして疑わず、朝廷を敬いその掟を守り、小賢しいことを考えたりしなかったので上も下も心が一つになり天下は見事に治まっていた。
天下の国も民も本来は神の物である。徳川将軍家も大名も神からそれを委任されているに過ぎない。だから将軍家も大名も民を大切にしなければならないし、民も将軍家や大名の言うことを良く聞かなければならない。上から下まで神の心は全てに存在している。人間の知恵などたかが知れている。だから小賢しいことを考えずただ素直な心で神に畏敬の念を払い、日常の成すべき事を黙々と成す事で天下は見事に治まってゆくのだ。

「玉くしげ」は紀州藩主・徳川治貞の求めに応じて書かれたものなので、徳川幕藩体制を否定しないように大層気を遣いながら書かれており、少々解りにくいのですが、これは神~天皇~将軍~民は皆一体であるということを説いた思想です。これが神の前では皆が平等であるという国学独特の一君万民思想の源流となるのです。


本居宣長の死後、子の春庭に弟子入りし、宣長の直弟子を自認していた平田篤胤は、国学の四大人の一人にも数えられますが、平田という人は、学者然としていた本居宣長とは毛色が違い、雑誌の編集者に近いような印象を受けます。

実にエネルギッシュかつエキセントリックであり、キリスト教から仙界まで博識を活かして膨大な書物を著し、時にその突拍子もない世界観を平易な内容で庶民層にアピールしました。

ただ、こうした活動は実直な学者から見ると実に俗物的であり、丸山真男などは平田の事を浅薄で見るべき物は何一つ無いと切り捨てています。まあ思想的スタンスの違いが最大の原因だと思いますが。

平田は本居宣長の思想を推し進め「御国の御民」という考え方を展開します。これは、日本は神の国であるから日本人は皆神の子孫だというものです。

本居宣長は自身でも言っていますが、彼の国学思想は数百~数千年単位で俯瞰して初めてその正しさが認められる物なので、近視眼的に捉えて、それを行動に移してしまうと実に危険な思想になってしまいます。それ故宣長は、余計な事はせず、流れに身を任せなさいと言っています。それを平田と四千人に及ぶ弟子達が急進的に「解り易く」庶民層に流布させたために、先の天保庄屋同盟のように様々なルサンチマンと結び付き、明治維新~自由民権運動と続く巨大なうねりを生み出す事となるのです。

しかし、漠然とした俯瞰的思想をそれに取り憑かれた急進的な推進者が様々な矛盾を抱えながら突き進むことで時代という奔流が急展開してゆく様は、マルクスの共産主義をレーニンが無理矢理に国家の体制としてしまったのに極めて似ているのではないかと思うんですがどうなんでしょうね。

本居が活躍した時代というのは、所謂、田沼時代と呼ばれた時代で貨幣経済が爛熟期に入った時代で、ここでも持つ者と持たざる者がの格差が社会問題となっていました。

本居は伊勢・松阪の商家に生まれましたが、商人の才覚無しと言われて医者になり、後に国学の大成者となりましたが、平田も秋田・久保田藩の武士の子として生まれながら、武士としての才覚無しとされ、20歳の頃に江戸に出奔したという過去を持っています。国学というのはその発生からしてルサンチマンだったのではないでしょうか。それ故、いつの時代も社会的弱者を吸い寄せ、酩酊させる魔法のような要素を多分に含んでいるように思います。そうした所も共産主義と非常に似ていると思います。現在では左右両極端に振れている思想ですが、お互いに振れ過ぎて反対側でぶつかってしまった。イデオロギーというのはそんなものなのかもしれません。しかし、西洋人の思想というのは常に神と対峙し神を克服することを永遠のテーマとしており、共産主義の階級闘争などはその典型だと思いますが、全ては神と一体である、神に身を委ねなさいという共産主義と対極に位置する国学とルサンチマンという点において通底している所がとても面白いと思います。そう言えば、村中も磯部もエリート中のエリートである統制派に粛清された非主流派の面々でした。


周知の通り、国学や別系統で発生した水戸学による尊皇・勤皇精神が明治維新の原動力となるのですが、豪農や庶民層に浸透した国学の思想はそのまま自由民権運動に繋がって行きます。

国学と自由民権運動というのは従来あまり関連づけて解説されることはありませんが、国学の一君万民思想という素養がバックグラウンドとして無ければ、開国してたかだか10数年程度で全国に自由民権運動が広がったりするものでしょうか?無論、国学だけでなく、堯舜の治世のような漢学の素養も影響していると思います。思うのは、洋学の思想に触れた知識人がいきなり「これだ!」と思ったというより、国学や漢学の思想から、「そうであるに違いない」としていたのが洋学の思想に触れるにつけ「やっぱりそうだった!」と確信したのだということです。

さらに、1880年に憲法の制定が決まると、全国から実に民主的な私擬憲法草案が様々に出てくるのです。高知の植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」はよく知られていますが、その他にも東北地方からは宇加地新八の「建言議院創立之議」や小田為綱の「憲法草稿評林」、武蔵野からは千葉卓三郎の「五日市憲法」(千葉は仙台出身ですが)、九州からは向陽社(後の玄洋社)が母体となっている筑前共愛公衆会から「大日本国憲法大略見込書」などが出されます。

大川周明は「尊皇と民選議院とは、表面一致せざるが如くにして、実は同一精神に出でて居る」との言葉を残していますが、どの私擬憲法も天皇大権を認めています。ルソーの「社会契約論」を「民約約解」として翻訳し、自由民権運動に大きな影響を与えた中江兆民も天皇制と民権は矛盾しないとしています。後に大逆事件で処刑される中江の弟子・幸徳秋水も天皇制は否定していませんでした。

ただ、江戸時代から時代も下って来ており西洋の様々な思想なども入って来ていることから、例えば、小田為綱の「憲法草稿評林」などは天皇大権を認めながら、もし天皇が暴威を以って民を苦しめるようなことがあった場合は、国民投票によって天皇をリコールしても良いという条項がある等かなり急進的です。

いずれにせよ大川の言葉が全てではないでしょうか。この当時、尊皇と民権は同一の精神から生み出されていたのです。この源流は間違いなく国学にあると言えます。



えーと、一応、国学がいびつながらも民主主義的思想の源流の一端を担っていることは明らかになったと思うんですが、実はもう少し別の話をしながら、冒頭の敗戦の話に至る・・・筈なので、もう少し、この好き者以外を遠ざける話にお付き合い下さい。よろしくお願い致します。。。Part.4に続きます。
ご無沙汰です。

前回の日記を更新した後に、KOUSUKE離脱のお知らせなどをしたりしまして、まあ色々と急な出来事があった訳ですが、サポートを迎えましてこれからも頑張って行きますので、また改めてよろしくお願い致します。


で、前回は確か戦前の軍部にも革新派という共産主義者の一団みたいのが居るっていう所で終わりました。


軍部と共産主義。



いかにも水が合わないというか、むしろ我々が昔から教科書とかで教わっていた戦前のイメージは、治安維持法に代表されるような明治以来の近代天皇制とマッチしないそうした活動家への政府や軍部による不当な弾圧というものですです。

しかし、例えば、二.二六事件を引き起こした磯部浅一や村中孝次、栗原安秀といった人々は「革新派青年将校」と呼ばれていました。

よく、二.二六事件は陸軍内の二大派閥であった皇道派と統制派が対立し、急進派だった皇道派が国家革新を目指して無計画に暴発したしたみたいな説明のされ方をしますが、どうもこの説明というのは事の本質を捉えていない気がするんですよね。


何故なら、二.二六事件の時に初めて皇道派が暴発した訳ではないからです。

1931年には統制派が三月事件でクーデター未遂を起こしており、同年10月には皇道派が似たようなクーデター未遂事件である十月事件を起こしています。そして、裏でそのどちらにも関わっていた日蓮宗の僧侶・井上日召は、両事件が未遂に終わったことに業を煮やし、翌年の1932年に血盟団事件を起こし元蔵相の井上準之助と三井財閥の理事だった団琢磨を暗殺します。井上等実行犯は無期懲役の実刑が下りますが、彼等の想いはさらにエスカレートし、五.一五事件での犬養首相暗殺として結実します。

1934年11月には、後に二.二六事件を起こす磯部や村中等がクーデターを計画しているという密告から起きた陸軍士官学校事件により、皇道派の巨頭だった真崎甚三郎は教育総監の職を更迭されました。
統制派は三月事件以降暴力革命路線を捨て、全体主義的な統制経済による総力戦体制を構築する高度国防国家樹立を構想していましたが、皇道派はこの陸軍士官学校事件を統制派の陰謀であると解釈し、1935年8月、派閥の領袖だった永田鉄山軍務局長が皇道派の相沢三郎に暗殺される相沢事件を引き起こします。そして翌年、1936年2月に「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げた二.二六事件が起こるのです。


ここまで長々と統制派と皇道派の抗争を書いて来ました。


上記したような内容は学校でも習いますが、大体、「軍部の台頭」みたいな表現の仕方をします。こうした軍部の暴走が後の太平洋戦争へと繋がったと。確かにそうなんですが、では、彼等が国家の何を革新しようとしていたのか?そして何故、対立していたのかが全く解らないのです。


そこで彼等の革新の動機と思想的な背景を見てみたいと思います。


まず、三月事件以降の流れを見てみますと、統制派、皇道派、またどちらにも関わっていた血盟団や社会民衆党といった人々にとっての共通の敵が存在することが解ります。それは所謂、資本主義を推進する政治家や財閥、資本家といった存在でして、それは1929年に起こった世界恐慌が直接的な動機となっています。

世界恐慌以降、同時期の金解禁や東北地方の冷害・津波の影響もあり、全国的に人々の生活は疲弊し農村では娘の身売りなどが社会問題になりました。

そんな状況にも関わらず、私利私欲の限りを尽くす資本家とそれに与する政治家共の癒着は腐敗の一途を辿る一方である、と彼等の目には映っていました。そこで、このような状況を革新し、国家改造を成し遂げなければならない・・・これが彼等所謂革新派と呼ばれた所以です。

皇道派は「資本家とそれに与する政治家=君側の奸を討ち果たし、天皇親政を復活させる昭和維新」の為に直接行動に出ました。統制派は途中から直接行動を捨て、合法的な手続きで、資本主義体制から全体主義的な統制経済体制による社会の変革を目指す方向にシフトしましたが、いずれにせよ、手段が違うだけで目的はあまり変わりません。そもそも、元々は統制派も皇道派も陸軍内の同一の改革派グループとして誕生しました。それは1921年に永田鉄山や小畑敏四郎等によって交わされたバーデン=バーデンの密約です。その後、世界恐慌を経て考え方の相違から、それぞれの派閥に分かれたと考えるのが正しいかもしれません。


戦前、田中義一首相の秘書官を務め、戦後には吉田内閣で法務総裁を務めた殖田俊吉という人が、戦後、統制派と革新派について、以下のように述べています。

「二・二六に蹶起した若い将校達は、所謂皇道派であつたかのように言われて居るが、実は皇道派でも無く統制派でも無い、どちらかと云えば気分は皇道派に近かつたかも判らないが、抱いている考え方は統制派に近いものであつた。唯統制派は何時でも幕僚を主流とする団体であり、二・二六の若い人達は第一線の即ち幕僚でない将校であつた。皇道派というものは、言われている程有力なものではなかつたと思うが、これも革新派ではあつた。その意味において通ずるものがあるけれども、事実は革新派の中の最もプリミテイブな復古主義者であつた。尤も全部がそうだと云うのではなく、皇道派と言われる人達の中には非常にリベラルな進歩的な人達もあつた。これは表現の仕方は色々あつただろうが、一面リベラリストでありながら、然も最も古い陸軍の伝統を多分に持ち続けて居た人達、好い意味の大陸論者であつた。それで幹部派即ち統制派が大川周明に近かつたとするならば、二・二六の若い将校達は、北一輝に非常に近かつた。或人は是を北と大川の喧嘩だと言つたくらいだ。」:『文芸春秋』第27巻第12号、文芸春秋新社、1949(昭和24)年12月


自分には「要するにどっちも大して変わらない」と読めます。


しかし、国家改造を断行するために資本家を斃す・・・何か聞いたことあるスローガンですよね。そう。彼ら革新派将校の思想はまさに共産主義者そのものと言っていいものなのです。ここで軍人と共産主義が同居することとなります。

事実、統制派は多くの共産主義者をブレーンとして迎え、全体主義的統制国家を目指すのですが、ここまでで読む人が読んだたら、「だが、ちょっと待ってほしい」と朝日新聞的なつっこみを入れることでしょう。何故なら、共産主義は天皇制を認めませんが、統制派にとっても皇道派にとっても天皇という存在は神聖にして犯すべからざる存在です。それが何故このような思想を持つに至ったのでしょうか。


ここまで何度も共産主義と書いてきましたが、実は彼等の思想は国家社会主義と呼ばれる、共産主義似て非なる思想です。


共産主義と国家社会主義。


根っこはどちらも同じマルクス主義なんですが、そもそも共産主義というのは「社会は物によって構成される。資本主義はその最たる形態であるが、持たざる者は持つ者との差=階級を打ち倒すべく闘争を始める。そして最終的に持つ者や国家は倒され資本主義は崩壊し、その結果、皆が平等に物を所有するようになる」というものですが、国家社会主義はこれを国家の為に実現しようというものです。故に国家が経済を統制し物資を平等に配給するという全体主義的なシステムになります。

本来、資本主義の自然崩壊を待たなければならないという過程をレーニンは無理矢理すっ飛ばして国家を作ってしまったために、結果的にマルクスの主張は成立せず、国家社会主義とほぼ同じような形になってしまいました。


三月事件等一連の事件に協力した社会民衆党の赤松克麿という人は元々共産党員でしたが、途中でマルクス批判を行い、国家社会主義者に転向しています。こういう人の動機はある意味とても解り易いので、こうした人が革新派将校に影響を与えたとはあまり聞いたことがありません。利害が一致した故の共闘だったのだと思います。


殖田俊吉の回想にも出てきましたが、革新派将校が私淑した思想家は北一輝や大川周明といった国家社会主義者です。


北一輝と言えば、学校で歴史を勉強した際は二.二六事件の首謀者に影響を与えた狂信的国粋主義者みたいな印象しかなかったんですが、彼の代表的著書で革新派将校たちのバイブルとなった「日本改造法案大綱」には、言論の自由、基本的人権尊重、農地改革、普通選挙(1923年に書かれてるので普通選挙法の前です)、男女平等・男女政治参画社会の実現、私有財産への一定の制限(累進課税の強化)、財閥解体等々の実現を謳っており、天皇が国民を率いて資本家を排除すべきといったような事や人種差別の廃絶といったような事も謳われています。


一部急進的ではありますが、その民主的な内容は今こそ再評価されてしかるべきと思います。
しかし、これが全体主義的な国家を標榜する国家社会主義者の掲げた素案なのか?と首を傾げたくなります。

日本の国家社会主義と言えば、日本にマルクスを紹介した後にそれを独自に発展させた思想を展開した高畠素之や先の赤松克麿が浮かぶのですが、この北一輝や大川周明といった人々の国家社会主義というのは所謂、マルクス主義由来の輸入物の国家社会主義とは全く異なる源流を持っているように思えてなりません。


こうした独特の民主主義と社会主義が混在した発想の源流には国学にあるのではないのかと思うのです。


てな訳で、国学とかにまで話が行き出して、一体どんな風に収拾を付けようかと難渋する日々ですが、この辺で。。。。Part.3に続きます。
今回はRoyal Code Resurrectedについてです。



この曲はパッと聴き、やれAgainstだとかResistだとか言ってるんで、如何にもメタルでして、単にそういう曲だと思ってもらっても構わないんですが、そうすると中間部分のSEが何だこれ???になってしまいますので、歌詞の背景を説明したいと思います。


このSEは所謂、太平洋戦争における真珠湾攻撃の成功を伝えたラジオの音声です。この曲では、戦前の日本が戦争に至った背景を表現しようと思いました。

別に終戦記念日が近いからという訳ではないのですが、複雑に絡み合いながら突入していったあの戦争の中の一本の糸について思うところを述べたいと思います。




「近衛上奏文」という有名な文章があります。


これは敗色濃厚になってきた1945年2月、太平洋戦争の収束を願った昭和天皇が重臣達に意見を求めた際、1937年6月、1940年7月、1941年1月と、三度に渡り首相を務めた近衛文麿が提出した物です。


内容について詳述は避けますが、平たく言うと「全部、共産主義者が悪い」という内容です。


太平洋戦争というと日米開戦時の首相・東條英機がどうしても槍玉に上げられますが、別に東條さんがいきなり対米戦争をおっぱじめた訳ではなく、開戦に至るまでに失政に失政を積み重ねた挙句に引き返せなくなり開戦已む無しとなりました。そして、その失政の殆どは近衛内閣の時のに起こったと言っても過言ではありません。
以下に、近衛内閣で起こった主な出来事を時系列的に列挙しれみます。

《第一次近衛内閣》
1937年 7月 日中戦争勃発
   10月 企画院設立
    11月 日独伊防共協定
1938年 1月 第一次近衛声明(国民政府を相手とせず)
    4月 国家総動員法公布 
《第二~三次近衛内閣》
1940年 7月 全政党解散→新体制運動開始
   9月 日独伊三国軍事同盟締結
    10月 大政翼賛会発足
1941年 4月 日ソ中立条約締結
    7月 南部仏印進行→アメリカの対日石油前面輸出禁止
     9月 日米交渉ほぼ決裂。
   10月 「もう無理」と政権投げ出し→内閣総辞職
    12月 日米開戦。


これは言い訳できませんね。

よって、上記の「近衛上奏文」は自分のダメさ加減を共産主義者に責任転化しただけのどうしようもない上奏文だとの見方が一般的で、事実、昭和天皇も「これはちょっと無理だな」と一蹴しています。

ただ、近衛文麿の「全部、共産主義者が悪い」という言い分も理由の無い事ではないのです。


1941~42年にかけて、ゾルゲ事件という映画にもなった有名な事件が起こりました。


日本で諜報活動を行っていたソ連・コミンテルンのスパイ、リヒャルト・ゾルゲが逮捕された事件で、首謀者として逮捕された人物の中には近衛文麿のブレーン集団「昭和研究会」の一員だった尾崎秀美も居ました。

尾崎秀美は日中戦争後、中国での不拡大方針を唱える政府や軍部の思惑を他所に、近衛のブレーンとして強烈に日中戦争を推進。ドイツを仲介にしたトラウトマン工作を妨害し、「国民政府を相手とせず」という第一次近衛声明を出させたり、独自に国民党の汪兆銘に接近し、陸軍が独自に行っていた和平工作をかく乱するなどしたため、まとまるものもまとまらず日中戦争は次第に泥沼の様相を呈してゆきます。

また政府内で言論を二分していた南進論と北進論の様子をゾルゲを通じつぶさにコミンテルンに報告し、南進論が取られると決まるや(1941年7月の南部仏印進行です)、これを知ったソ連は6月に始まっていた独ソ戦線に対日戦線用に配備していた極東の精鋭部隊を独ソ戦に投入。日本の同盟国だったドイツはこの増援が原因でソ連に敗北したと言われています。


共産主義者の思想の中に「革命的祖国敗北主義」という考え方があります。
簡単に言うと、社会変革の為にわざと国を敗北に導くという発想で、ドイツ革命やロシア革命といった歴史的経緯に基づいている訳ですが、まあ尾崎もこうした思想に忠実に行動した訳です。


尾崎はゾルゲに連座して処刑されますが、尾崎の本性を知った近衛は天皇に対し己が不明を愧じたと釈明しています。しかし、そもそもこの尾崎が属したシンクタンク・昭和研究会やその主催者であった後藤隆之助。この人は近衛の高校~大学以来の同窓です。また、尾崎の親友で第一次近衛内閣で内閣書記官に抜擢された風見章、元老・西園寺公望の孫で尾崎等と共に汪兆銘に接近した西園寺公一、第一次近衛内閣以来の付き合いである有馬頼寧等々、近衛の周辺に居た人物というのは、みな共産主義や社会主義に非常に近い思想を持った人々でした。何より、近衛自身が学生時代にマルクス主義の講義で当時とても有名だった京都帝国大学の河上肇の講義を受け、共産主義、社会主義思想に深い感銘を受けています。

こうした人々が中心となり、大政翼賛会の成立、統制経済・計画経済配給制導入等々、後に「全体主義」、「独裁体制」と批判される「新体制運動」は推進されて行きます。

こうした政策を推進した官僚達に木戸幸一や岸信介といった人々が居ましたが、彼等はいわゆる革新派と呼ばれました。


同じように革新派と呼ばれた人々は政治家や官僚だけでなく、軍部の中にも数多く存在しました。


またしてもかなり長くなってしまいそうなので、Part.2に続きます。次回は軍部における革新派の思想とは何だったのかを書きたいと思います。歌詞に関しては、全く出てくる気配がありません。。。