今回はAmber Moonです。


ようやく普通の歌詞解説に戻れそうです。


この曲は他のメタル曲と比べて大分異質な曲なんですが、昔からアイルランドやらスコットランドの伝統音楽であるケルト音楽が好きでして、そんな曲があっても良いのではないかと思い作ってみました。

学生時代にスコットランドの伝統音楽を取り入れたロックバンドであるRunrigやBig Countryに出会いケルト音楽にのめり込み、PlanxityやBothey Band、Moving Hearts、Clannad、Baka Beyond、The Corriesといったトラディショナルなバンドから、ポップスではThe Corrs、パンク畑ではDropkick Murphys、Flogging Molly、プログレ畑ではKarnataka、Ionaといったバンドまで色々と聴いてたんですが、根がHM/HRの人間なので、元Thin Lizzyのダーレン・ワートンが居るDareや元Mama's Boysのマグナス兄弟がやっていたCeltusなんかの影響を強く受けた曲となりました。また歌詞も曲調に相応しいアイルランドをテーマにした物にしようと考えました。


毎年、3月17日は聖パトリック・デーと言いまして、アイルランドでは祝日ですが、アメリカではアイルランド系移民の末裔達が緑色の物を身に付けて各地で大パレードを行ったりしています。緑とはアイルランドの象徴であるシロツメクサ(クローバー)の色から来ており、アイルランドを別名エメラルド島と言ったりするのもこの緑色から来ています。

で、この聖パトリックとは何者なのか?

聖パトリキウスとも言いますが、この人は4~5世紀にアイルランドにカトリックを広めた司教で、アイルランドの守護聖人として祀られています。3月17日は彼の命日なのですが、Amber Moonの歌詞はこの聖パトリックの事をテーマとしました。


聖パトリックはウェールズのケルト人の家に生まれましたが、奴隷としてアイルランドに売られた後、脱走。ウェールズに戻るや、今度はローマに渡って神学を学び、再びアイルランドに渡り、キリスト教の布教に勤めました。

当時のアイルランドはドルイドと呼ばれる神官が王をも凌ぐ権力を持った社会でしたが、聖パトリックはアイルランドの土着信仰を上手く取り入れて布教活動を行います。

例えば、キリスト教の三位一体の教えを当時から国の象徴であったシロツメクサの3枚の葉に例えて説明しました。今も昔も妖精や精霊の存在が信じられているアイルランドですが、三位一体の「父」「子」「聖霊」の聖霊は実は妖精のことであるといった具合にです。

所謂、神仏習合ならぬ、ドルイド・キリスト習合ともいうべき思想ですが、こうした穏やで現地の人々に受け入れられるように布教活動を行ったことから、ついにはドルイドの神官自らが自分の本地はキリストだったとまで言い始めたりしまして、このように聖パトリックは多くのアイルランド人慕われることとなったのです。

しかし、王の権力を背景に土着信仰を徹底的に弾圧し、今を以ってブラックメタルという鬼子を生み出し続けるノルウェーにおけるキリスト教の布教史と比べるとエラい違いですね。ノルウェーで布教活動をした宣教師もイギリス人の宣教師が多かったらしいんですが。

いずれにせよ有史以来、1938年に独立するまで(イギリス連邦を脱したのは1949年)ほぼ暗黒時代と言っても差し支えないようなアイルランドの歴史の中で、この聖パトリックが布教していた時代のみが、春の様に柔らかな陽射しの射す穏やかな時代だったとされているようです。伝説では彼が亡くなった際、太陽がその死を惜しみ、12日間沈むことなく輝き続けたとされています。

よって、1番では春をイメージした出だしとなっていますが、アイルランドは冬が長く風の強い日が多いらしいので、聖パトリックの滞在した春のような時期くらい、風が凪いでいても良いのでは無いかと思い、ああいった歌詞としました。

差し延べたその指とは聖パトリックの指で、彼が手渡してくれる花とは冒頭に記したシロツメクサの花をイメージしています。

Bメロの明日を隠す闇とは、一般的に明日のことなど当然判らないのですが、アイルランドの場合、侵略・弾圧・反抗といった歴史の繰り返しだったので、闇という言葉にはより凄惨なイメージを込めています。そしてその闇を振り払ってくれる存在こそが聖パトリックであるという内容です。

サビにおける灯とは命のことです。聖パトリックの命であり、またアイルランドの人々の命でもあります。未来とは先の見えない不安しかありませんが、聖パトリックの教えのおかげで明日も力強く生きて行けるという内容です。

2番は聖パトリックが没した時の情景を歌っています。
Aメロはそのままですが、Bメロでは晴れない闇、見えない明日の中でパトリックの教えを守り続ける様を表しました。そしてサビではその思いを光が奪われたと直裁的に吐露しています。闇を照らす存在として月=聖パトリックとう構図にしてみました。月が叢雲に覆われた時の暗闇の恐怖といったら無いですよね。とは言え、死んだ人間は生き返ることはないので聖パトリックの教えを皆で分かち合い、生きて行こうという風に締めています。

なお、ここで出てくる琥珀の雫というのは所謂アイリッシュ・ウイスキーのことで、蒸留方法を聖パトリックが伝えたという伝説があることから、ウイスキーを酌み交わしながら聖パトリックの話を語り継いだりしたんじゃないかと想像し、先の月のような存在であると併せて“Amber Moon(琥珀の月)”というタイトルとしました。

どちらかと言うと聖パトリック本人というより彼を慕ったアイルランドの人々の情景を描こうと思った次第です。


以上です。
なんか今までで一番歌詞解説らしい内容でしたね。
やれば出来る。

次回はSky Highです。
えー・・・行きがかり上Part.5まで来てしまいましたRoyal Code Resurrectedの歌詞解説ですが、もはや歌詞殆ど関係無くなってるんですが、今回はようやく完結篇です。果たして、無駄に長いだけの歌詞解説が最後は上手くまとまるのか?頑張ります。


前回は近衛篤麿が何故、島津斉彬の後継者なのか??って所で終わりましたが、実は篤麿は斉彬の娘である貞姫の長男なのです。

近衛篤麿はその名の通り、五摂家の筆頭で公家の中でも最高の格式を持つ近衛家の当主として生まれた訳ですが、明治というこれまでの江戸期とまるで異なる開化期を迎えるにあたり、公家の筆頭格の当主として天皇制を支えて行くために何を為すべきか?という事を真剣に考え、そのヒントをヨーロッパの貴族社会に求めるべく、当時の日本が国家体制のお手本とした帝政ドイツに留学します。そこで、財産や権力など社会的地位を持った階層に属する人々はインフラの整備や貧困層への支援といった社会への発展に貢献しなくてはならないという責任が伴うというヨーロッパの伝統的な思想を学びます。これをノブレス・オブリージュと言います。

帰国した篤麿は、このノブレス・オブリージュ思想を日本に根付かせる為に、貴族の子弟を世界で通用するような人材とするべく院長として学習院を整備したりしました。

また、剛毅な人柄で知られた篤麿は上記のアジア主義を以って日本の外交政策を側面から支援して行こうと考えます。

明治政府において最初に大アジア主義的な外交政策を展開したのは誰あろう大久保利通です。
征韓論めぐり西郷と対立した大久保ですが、一方で日本、中国、朝鮮という東アジアの団結を目的とした団体を作ることを清の李鴻章と約束しており、1878年に海軍の中国通・曽根俊虎等を中心として「振亜社」を組織させます(同年大久保は暗殺されます)。同社はさらに外交官の渡辺洪基が中心となり「振亜会」として発展して行き、アジア主義政策を展開して行きますが(1880年に興亜会と改名)、基本的に上述したように上から目線の政策だったので、江華島事件~壬午事変~甲申事変と朝鮮独立運動が清の朝鮮派兵によって阻害されたりする内に、会内部も強硬派と穏健派に分裂。ついには1894年の日清戦争勃発により崩壊に至ります。

こうして崩壊した興亜会(崩壊当時の名は亜細亜協会)は1900年に東亜同文会というアジア主義団体に組織に吸収されますが、この会の会長が近衛篤麿でした。

元々、篤麿は興亜会に次ぐアジア主義団体として知られた東邦協会というアジア主義団体の副会長になったたんですが、その後、崩壊した興亜会を吸収して東亜同文会を結成。会長に納まります。

この人の軌跡を詳細に追う余裕は無いのですが、まあ公家らしからぬ馬力と公家らしい経済感覚の無さで、近衛家の財産を湯水の如く浪費し政治活動に勤しみます。

大アジア主義を啓蒙するための雑誌「東洋」を発刊し、無料で配布するわ、軍閥が跋扈し混乱状態だった中国に乗り込み大陸における社会道徳の機軸として浄土真宗を広めようとするわ、ロシアが南下の色を見せれば、玄洋社の頭山満等と対露同志会を結成し、全国を遊説し強硬論をぶつキャンペーンを展開するわと、まあ八面六臂?の大活躍でした。
ただ、そんな篤麿も病には勝てず、日露戦争が起こる1ヶ月前の1904年1月に中国で感染した伝染病が原因で42歳の若さで他界します。


西洋貴族由来のノブレス・オブリージュ思想の洗礼を受けた篤麿が西洋の脅威からアジアを守るべく国学由来の大アジア主義を振りかざし猪突猛進する様というのは実に不可思議な様ですが、これを先のルサンチマンという切り口で見て行くと納得できるのではないかなと思います。

そして日露戦争が始まるタイミングでの逝去というのも当時10代だった長男の文麿という人物を考える際の大きなファクターだったのではないかと思います。

何故ならロシアという江戸期以来の仮想敵国に対し、賠償金は取れないまでも勝利を収めることが出来たという事実は、この先日本は何処に向かえば良いのだろうかという漠然とした空虚感を注ぎ込みます。そのような折に、ヨーロッパから未だ嘗てない文字通り革命的な思想が輸入されて来ました。マルクスによる共産主義思想です。

当時の若者達は瞬く間にこの思想の虜になり、ついには1908年に国体尊重と綱紀粛正を図る詔書が発せられた程でした。後の世に言う戊申詔書ですが、この革命思想に取りこまれたのは、旧公家、旧大名家の出身で構成される華族の子弟達も例外ではありませんでした。

篤麿の思惑通りなのかどうかは不明ですが、華族階級にはノブレス・オブリージュ的思考の方々が多く、近衛文麿のブレーンの一人だった有馬頼寧は、現在競馬の有馬記念にその名を残しており、現代のスポーツ振興に果たした功績は多大なものがありますが、元々は摂津有馬氏の流れを汲む旧久留米藩主である伯爵家の出身です。
やはり近衛篤麿のようにヨーロッパを遊学の後、華族として国家に対してどうあるべきかを考えた有馬は、共産主義に感化され積極的に共産主義者等と交わり、部落問題や女子教育等の社会奉仕活動に精力を注ぎ、ついには有馬家の家計を傾けてしまうほどでした。この辺の熱の入れ具合といい経済感覚の無さといい、近衛篤麿に非常に似た印象を受けます。
また、最後の内大臣として東條英機を首班に指名した木戸幸一も侯爵・木戸孝允の孫として生まれ、近衛文麿と同じく京都大学で河上肇に私淑していました。

そして、こうした若い華族の子弟達を抜擢し天皇の藩屏としてまとめ上げたのが、その領袖とも言える西園寺公望です。

10年におよぶフランス留学でフランス流の民権思想に影響されていた西園寺公望も旧公家・清華家の徳大寺家の出ながら、被差別部落出身の女性と結婚しようとしたり、ヴェルサイユ会議で人種差別撤廃を訴えたりと一貫してリベラルを自負するという二面性を抱えていました。ただ、旧大名家の人々はともかくとして、旧公家の人々というのは意外に被差別民に対しては抵抗が無かったんじゃないかなと思うんですよね。というのはいずれも陰に陽に天皇に仕えるべき「畏れ敬われる存在」だったからですこの辺の話はちょっとまた民俗学的な話になってしまうので、詳述は避けます。

いずれにせよ、西園寺は腹心とも言える原田熊雄を使い、近衛文麿を中心として若き華族の子弟たちをまとめ上げ、天皇を藩閥~軍部と続く、ともすれば憲政の常道を逸脱しようとする勢力に対抗する勢力を作ろうと勤めました。

しかし、これまで述べたように、西園寺が抜擢した近衛文麿こそが西園寺の思惑を外れ開戦への端緒を作ってしまうのですが、そもそも近衛がどのような思想を持っていたのかを理解するのにうってつけの論文があります。

それが近衛27歳である1918年に、雑誌『日本及日本人』に発表された「米英本位の平和主義を排す」です。要約すると、


「一次大戦後に提唱された民主主義・平等主義とはまさに日本の国体における道徳観念の標榜するところであり何ら英米と違う所はないが、そもそも、英米の標榜する平和主義とは結局「(植民地や資源等を)持てる国」である自分達の利己主義に基づいており、第一次大戦を引き起こしたドイツも大概であったが、結局、ドイツも「持たざる国」であったがために、「持てる国」の利益を侵害すると見做され叩き潰された。日本も「持たざる国」であり、その境遇はドイツと非常に似ている。米英が今後もこのような利己主義的で欺瞞に満ちた平和主義を振りかざすのであれば、日本は真の平和主義・真の平等主義のために現状を打破する挙に出ざるを得なくなる。」


この論文は如何にも若き正義感に溢れた共産主義・社会主義的な理想論に彩られており、まさにこれまで述べたルサンチマン的発想から来ているのですが、この翌年にヴェルサイユで開かれたパリ講和会議の全権大使である西園寺に随行し、共に人種差別の撤廃を訴えています。

この論文は英語に訳され欧米でも紹介されたため、パリ講和会議の時には各国から「とんでもないのが全権大使の随行員に居る」と大騒ぎになり、西園寺もこんな論文を書くなと窘めたそうですが、近衛の基本的な思想はこの論文に立脚していると言えます。

しかし、この論文、卓見と言いますか、やはり西園寺が目をかけるだけあって、近衛という人は優秀だったんだと思いますが、日本の主張虚しく、パリ講和会議後のヴェルサイユ体制下でワイマール共和国となったドイツは米英中心の国際社会から徹底的に袋叩きにあい、それが国民のフラストレーションを招きナチス政権誕生へと繋がります。日本も正に同じような道を歩み太平洋戦争へと繋がって行くのです。

近衛の「真の平和主義・平等主義のために直接行動も辞さず」という強行姿勢、如何にも若い第二世代的な発想だと思います。やはり年長者のやり方は温い、と思ってしまうのでしょうね。戦後の新左翼の物の考え方もそうですが、エディプスコンプレックス的な階級闘争主義と言いますか、どうしても若い世代というのは如何ともしがたい現状への不満や閉塞感を打破しようと考え方が急進的になって行きます。そしてこうした強気な考え方と五摂家筆頭と言う血統が軍部や国民に歓呼を持って迎えられ、絶大な支持の下、45歳の若さで近衛内閣は組閣されて行きます。

ヴェルサイユ会議以降、近衛が論文で指摘した通り、ワシントン海軍軍縮条約→パリ不戦条約→ロンドン海軍軍縮条約と続き、米英主導の「持たざる国」への締め付けは強まる一方でした。そして軍部はそれに対する反発を強めて行き、関東軍は独断で「持てる国」を志向したことが満州事変以降の大陸進出へと繋がります。またこうした軍部の独断先行への防波堤として組織された筈の天皇の藩屏たる華族の子弟たちも、皆一様に「政党政治などという政党同士のいがみ合いなどをしている場合ではない。国家総動員体制でこの難局を打開しなくてはならない」という軍部と同一の思考に至ってしまうのです。これが「バスに乗り遅れるな」という標語に表れます。
当時、スターリンは5カ年計画を発表し着々と国力を増進させており、国家総動員体制こそが国力を高め米英主導の世界体制に対する世界の潮流であるとされたからです。こうした思いが第一次近衛内閣として結実するのですが、その近衛を内閣首班に推進したのが西園寺だったというのが何とも皮肉な結果となってしまいました。

西園寺も含め華族の子弟達というのは皆優秀だったのだと思いますが、ノブレス・オブリージュを心の底からから実践しようとする程、非常にセンシティブであったため共産主義という理想主義的な思想にのめり込んでしまいました。

最も象徴的なのが、1933年に起こった華族赤化事件です。

もうそのままの事件名なんですが、八条隆孟(27歳)、森俊守(24歳)、岩倉靖子(20歳)、亀井茲健(22歳)、松平定光(23歳)といった若い華族達が続々と治安維持法で逮捕されます。容疑は共産主義的な新聞を発行し同じ思想を持つ仲間で組織を作ったというものです。
名前を見れば一様に旧公家や旧大名の子弟達だというのが判りますが、岩倉靖子などはあの岩倉具視の曾孫です。しかも彼女は他の容疑者が反省文を書いてすぐに釈放されたにも関わらず、頑として自分の思いを曲げず、「説明もできぬこの心持を善い方に解釈して下さいませ」との遺書を残し、自殺しました。靖子は「人夫などが汗水たらして働いている姿を見て帰っては可哀そうだと涙ぐみ、同族や富豪のぜいたくぶりを見ては、どうして世の中に等差がひどいのか」と思い悩むような女性だったようです。

若い華族の政治家達は皆心から真面目に天皇の藩屏たろうとし、共産主義の理想的側面を実践することこそが国家の繁栄に繋がると考えました。そして軍部において、統制派は共産主義国家ソビエトの全体主義的統制経済体制こそが現状打破の近道だとしました。一方、皇道派は国学由来の日本人が持つ平等的価値観と農村出身であるという出自が共産主義由来のロマン主義的指向性と結び付き、先に引用した殖田俊吉の文書にある「最もプリミティブな復古主義者」となり昭和維新を叫びました。彼等を突き動かしたものは、いずれも国学から共産主義を貫くロマン主義、裏を返すとルサンチマンでした。

実はこうした状況を端的に表すような証言が残っています。

赤松克麿と同じく社会民衆党の幹部で共に三月事件等に関わった亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方はカウンター・クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつである」と述べています。

要するに近衛を担げば自分達の思いは遂げられる、何故なら、近衛はこうした同じ思想の華族の一団を率いていたからです。この時、もはや華族の子弟たちは天皇の藩屏たりえず、また天皇自身もこのことに気づいていなかったのではないのかと思います。華族の子弟達はなるほど優秀ではありました。しかし、共産主義者達の政治的側面を見抜けなかったロマン主義的なおぼっちゃんの集団でした。彼等はそこを衝かれたのです。そして、ゾルゲ事件が起き、側近としていた尾崎という共産党員に裏切られた近衛は、この時、国際社会において共産主義という思想がどういう存在なのかを初めて理解し、「近衛上奏文」においてこれを批判するのです。


近衛内閣以降の流れは冒頭に述べましたが、ここまで書いてきて思うことは日本という国は常にルサンチマンを抱えて来た国だということです。

太古より、強大な中国という文明国に怯えながら、頻繁に起こる地震、台風、火山の噴火といった自然災害に耐え続けて来ました。そして、日本人はそうした如何ともし難い強大な力に対して愚直に過ぎる程、クソ真面目にルサンチマンを乗り越えようとしてきました。これは今を以て変わらないのではないかと思っているのですが、しかし、そんな哀しくもクソ真面目なルサンチマン民族にとって、共産主義という思想は最も凄惨な劇薬ともいうべき思想でした。

クソ真面目であるという性質が必ずしも良いことではないのは、国学においては先の本居宣長や平田篤胤の考え方の変遷を見れば解りますし、自由民権運動の活動家が隣国を解放しようと上から目線になったり、共産主義においては未だにその幻想に取り憑かれ、おかしくなってしまった人々が多く存在しているのを鑑みても解ります。岩倉靖子のエピソードなどはもはや哀しさしか存在しません。日本人というのは太古よりこうした哀しさを抱えて生きてきた民族なのです。

そして、常に自分達のルールこそが正義であり、都合が悪くなると力で以ってねじ伏せれば良いと思っている欧米人に対して、馬鹿正直に「何故人種差別をするのか?」正面きって訴え、馬鹿正直に欧米人と対等たろうと「王道対覇道」などというスローガンを掲げ、その実同じような手法で「持てる国」になろうとしたり・・・明治後にそれまでの日本的な文化を投げ打ち、鹿鳴館を建てて欧米人の猿真似をして踊り耽ったりしたにも関わらず、こういうことを理解せずに欧米に挑み敗れ去った実に哀しい民族・・・これこそが日本なのです。それ故、戦後は強い国=アメリカに対して徹底的に媚びへつらうという姿勢に180度転換しました。この点についての良し悪しはこの曲の歌詞とは無関係なので詳述はしません。

アホほど長くなりましたが、こんなことをつらつら考えながら書いた歌詞です。

ほとんど歌詞の解説らしい解説をしていないのですが、歌詞の中のRedSunというのは共産主義の事です。アカって奴です。


以上です。

次回のAmber Moonは簡潔に終わる予定です。

長々とお付き合いありがとうございました。
ついにPart.4にまで突入してしまいまして、国学がどうのと意味の解らないことを言っているのですが、もうすぐ終わるのでご容赦下さい。


で、前回述べた国学の一君万民思想というのは明治以降に現れた大アジア主義にも影響を与えていると思うんですね。

大アジア主義とは後の大東亜共栄圏の源流となった思想ですが、アジア蔑視の最たる物としてよく批判されます。やっぱ国学は右翼思想だ、どこが民主的だ?となりそうなんですが、ただ、同じような構想として鳩山由紀夫の東アジア共同体があったりしますが、こちらは何故か余り叩かれません。いずれにせよ左右とも同じような構想に行き着くのは興味深いですね。

大アジア主義の担い手としては戦前右翼の大物である玄洋社の頭山満や内田良平、また玄洋社とも連携した樽井藤吉や宮崎滔天等が有名ですが、いずれも国学~自由民権運動を通じ、朝鮮や中国の革命を支援し、東アジアからの西洋勢力の駆逐を目指しました。大アジア主義の本来の趣旨はここにあります。決して日本が東アジアを支配化に置こうなどという思想ではありませんでした。

国学において中国の“道”の思想はボロカス言われてますし、また古事記を史実であると絶対視する立場であることから、朝鮮に至っては神功皇后の三韓征伐の逸話もあり一段下に見られていました。
本居も平田も皇室が途切れることなく続いている事を論拠に、日本こそ絶対的に正しき道理を持った神の国であるので、中国も朝鮮も天竺も世界は皆、天照大御神の照らし出す恩恵に浴するべきだと説きます。平田に至っては世界の国々の源は神の国・日本であるとまで言い切っており、後の世に国粋主義と断罪される思想が前提としてあります。ただ、当時から上田秋成や山方蟠桃は「そんなん日本だけの話やろ。他の国関係無いやん。古事記みたいな伝説なんかどこの国にもあるで」と半ば呆れ気味に批判しています。

いずれにせよ、こうした考え方がアジア蔑視と言われる由来なのだと思うのですが、上記のいわゆる大陸浪人達は「西洋勢力が迫り風雲急を告げるこの時こそ、日本が中国や朝鮮を導いて東アジアを救うのだ」といささか独善的な考え方で在野の革命分子を支援するのですが、良くも悪くも純粋が故に、時に暴力的な手段にも出ており、それが後の閔妃殺害事件や日韓併合に繋がって行きます。ただ、内田良平などは日韓は併合ではなく対等の国家同士として合邦とすべきという構想で政府に協力していたのが結果的に一方的な併呑となってしまった事に怒り、独自に朝鮮の再独立させる運動を展開しました。


この大アジア主義は国学~自由民権運動とは別の思想的潮流も大きく影響しています。


江戸中期、特に工藤平助の「赤蝦夷風説考」に基づき田沼意次が大規模な蝦夷地調査を行って以降、日本の知識人層の間では、ロシアを仮想敵国とする風潮が強まり、これは日露戦争で日本が勝利するまで続きました。

さらに西洋に対する脅威が決定的になったのが阿片戦争です。良きにつけ悪しきにつけ日本の上に君臨してきた強大な中国様が蛮人と軽んじていた西洋人に瞬く間に叩きのめされたのです。現代で言うならアメリカが宇宙人に瞬殺されるようなもんですね。そこで、日本はどうすべきなのか?という共通命題が江戸末期の思想界を支配します。

こうした中、「西洋の技術を学びつつ、東アジアと連携し西洋勢力と対峙する」という主張を展開したのが、西郷隆盛や大久保利通の主君であり、心の師とも言うべき島津斉彬でした

薩摩藩の第11代藩主だった島津斉彬は幼い頃より祖父・島津重豪の薫陶を受け洋学に強い関心を持ち、ジョン万次郎を保護してアメリカの事情をヒアリングしたり、自らカメラで写真を撮ったり、反射炉・溶鉱炉の建設したり、ガラス製造工場を造ったり、蒸気機関の国産化を成功させ日本初の蒸気船を製造したりしました。反面、藩財政の圧迫を招いたため、少なからず反対勢力も多かったようです。斉彬の死後も、薩英戦争後にイギリスと急接近し留学生を派遣。西洋技術の積極進取に努め、1867年のパリ万国博覧会には幕府とは別に薩摩琉球政府として出展するなどしてゆきます。

こうした斉彬の志を継いだ西郷と大久保ですが、1871年に岩倉遣欧使節団の一員として大久保が訪欧した最中に征韓論が起こり、身一つで乗り込み朝鮮を説得するとした西郷隆盛は、帰邦した大久保利通に「時期尚早である」と反対され、それならと下野してしまうのです。こうして後の西南戦争に繋がって行くのです。

征韓論に至る経緯は大層長くなってしまうので割愛しますが、いずれにせよ、斉彬の後継者2人がその思想を同時期に別々に行わざるを得なくなり、そして反目し合う間柄になってしまったのは何という歴史の皮肉なんでしょうか。

なお、征韓論の主導者が自由民権運動の中心人物であった板垣退助であるというのも国学という切り口から見ると面白いですね。ただ、この人は上士出身ですし、この人や後藤象二郎の明治後の活動って薩長藩閥政府に対するカウンターとしての土佐藩の位相を上げるための政治運動にしか見えなくて、どこまで本気で考えていたのかよく解りません。


実は島津斉彬の後継者を自負していたと思われる人物がもう一人居ます。


名を近衛篤麿と言います。

そうあの近衛文麿の父です。
ようやくここまで戻ってきました。

何故、この近衛文麿の父が斉彬の後継者なのか?

次回に続くんですが、多分、次回で終わります。てか終わらせます。。。