小学校6年生になって学校で、初めて歴史を習いました。

私は授業に集中できるタイプではなかったので、教室に

貼ってある年表をよそ見して、チラチラ見るような児童

でした。

 

その中で、疑問に感じたことが大きく二つありました。

縄文時代から弥生時代へギャップでした。

縄文時代の縄文式土器は美しい幾何学模様で、弥生式

土器に比べてはるかに芸術性も高いものに対して、

弥生式土器はシンプルになっていたことでした。

 

そして、縄文式土器はもろいとか、教科書では書いて

あったけど、本当にもろかったら跡形もなく崩れる

はずです。それがなぜ、残っているのが不思議でした。

 

また、縄文時代は、いかにも原始的であって、

石器などが狩猟の中心の道具で、何も文化がなかった

ように教えられ、弥生時代になると権力者が現れて

国ができたようなこととか、よその大陸からきて

稲作が始まったとか色々教えられてきましたが、

どうもしっくりこなかった記憶があります。

 

次に、疑問に感じたのは、「コロンブスのアメリカ大陸

発見」でした。まるで、誰もいないところからの発見の

ような言葉の響きに疑問を感じました。

 

それは、アメリカがまるで無人島だったかのようなところ

を発見した!という言葉の錯覚に陥る感じでまさに「え⁈」

という感じでした。

 

確か、もともとコロンブスがアメリカ大陸に上陸する

までは原住民のインディアンがいたはずなのに、彼らの

存在をないがしろにしたように感じました。

 

インディアンの立場からしてみたら、たまたまコロンブスが

この大陸を見つけただけに過ぎないのに、大袈裟に感じ

ました。いかにも世紀の大発見として歴史にわざわざ残す

意義が私にはわかりませんした。

 

今となっては、これらの疑問はすべて、歴史は戦争での

勝者の都合のよいようにした残念な改ざんに過ぎないことは、

理解しています。

すべて、欧米や中国にとって都合のよい歴史にしてしまった

ことが、残念でなりません。

 

そのため、直感の優れた子供たちは学校の嘘だらけの教育を

すでに見抜いて、学校の学びを放棄することも何ら不思議

ではありませんね。

それを理解するのも、親の大切な役割であるかと私は感じてい

います。

 

思考に支配された大人たちも、今の社会に疑問をもっと持つ

ことを願っております。