毎年、遠くまでお参りにいきますが、
いろいろとおもうところがあり、今年は心のなかでお参りすることにしました。

10年とはあっという間です。

いつまた会えるかな・・

そのときまで
毎日毎日を全力で生きます!









村上さんのところ、
という、作家村上春樹さんがいろんな方の質問に答えていくサイトをnewspickで発見。

そこであがってたのが、
感受性の磨きかたを教えてください」という質問に対する、村上さんのこたえ。

この質問に対してはとくに共感はしていませんでしたが、
村上さんのことばに、ひきこまれてしまいました。

気持ちよく生きて、美しいものだけを見ていても、
感受性は身につかない。

毎度のごとく、
勝手に、いま、この状況で、自分が想像したことを書き出してみると、、、、

ひとの魅力は、深さと広さ。
知識や経験からつくられる、思考や想像力の深さと広さ。

同じ言葉でも、
「どっかで聞いたことある、ふーん」
って感じてしまうときと、
「なるほど、たしかに。」
と疑問なく納得できてしまうときとがあるのは、
その深さと広さのせいかな、、と勝手にかんじています。

世の中の、気持ちいいことや美しいものが50あるとしたら、
あと50、そうじゃないことがあるとおもうから、
その両方を体験したり、感じたりしたほうが、
より深さと広さが増すはずだと信じています。

最近の逃げ腰な自分にも喝!です。。


というか、このサイト、あらためてよくみたら、
ものすごい数の質問とこたえが。。
ほかにもみてみよう。


No pain, no gain

初・ニューサイランのお生花です。

ニューサイランは、自由花で使うことがほとんどで、
しなやかでハリのある、主役にもなりうる「葉」を、
自由自在に、かつ、素材を活かしてアレンジすることが、
自分にはまだ難しく、
いつも苦戦している花材なのです。

だから、今回、
アレンジをすることなく、
そのままのニューサイランに、自然の手を加えて生けられるのが、
ちょっと楽しみでした(*^ー^)


私は、
ニューサイランのイメージから、
スッと上にまっすぐ伸びるかたちで生けたのですが、
先生の手直しが入り、エレガントなかたちに。

こちらのほうが、よいです。




「体」は3本でくぼみをつくり、くの字に。




注意点は、

初歩的ですが「あしもと」です。
ニューサイランには、ものによっては、
葉の太さ7~8センチほどの大型の葉もあります。
そういった葉を生けたときに気を付けるのは、
「あしもとをどうやって隠すか」です。
「体」で隠すわけですが、そのボリュームを計算することが必要になります。

太い葉の、剣山への挿し方です。
何も考えずに挿していくと、
挿すところが足りなくなったり、
横幅が広すぎたりしてしまいます。

なのでこんな風に、
葉をまっすぐではなく、三角に真ん中を折り曲げて挿したり、
横に出てしまう葉を、ちょっと切ったり。





あとは、「葉のため」です。
すべての葉が「真」に向かうように、
丁寧にためます。
丁寧に丁寧に。
でないと、真ん中で裂けてしまいます。







恥ずかしい発見。


わたしは、自分がやりたいことを、めいっぱいやることが、自分の人生だと思っていた。


でも、

なにか、

これは、

すこし、

欠けているようだ。



そのことに、いまさら、気づいた。


きっかけは、この方のこの記事。


「昨日、TSUTAYAで号泣しました。」(水野敬也さんの「ウケる日記」より)



ラセター氏のおもいに、
すごく「大きなちから」を感じた。



だれかを喜ばせたいとか、
だれかのちからになりたい。

一人だけじゃなくて、
できる限りたくさんの人を幸せにしたい。



「世界平和」という言葉を、耳にすることがあるけど、
実は、自分にはピンとこなかった。

もう、ちっぽけなわたしには壮大すぎたんだろう。

かみくだいて理解ができなかった。




わたしは、大切なものに気づいていなかったようだ。



別に、これは気づいてもきづかなくてもいいものなんだろうけど、


気づいて、そして

行動に移すことができるなら、

世の中をぐんとよくする原動力になることは間違いないんだろうとおもう。


ひとりのちからでは出し得ない、信じられないぐらいの大きなちからになるんだろう。















連日いろんな話題が報道されるけど、

いつも気になるのは、当事者に対する感情的でつめたい「批判」。

ほとんどが、当事者と話したこともないような親しくない人がしている「批判」。

そんな「批判」を耳にするたび、ムズムズっとする。





外側から見えてることなんて、氷山の一角だとおもうし、

当事者のことをすべて理解することなんて不可能だとおもう。


なにより、みんな自由なのに。





他人が堂々とああだこうだととやかく言える資格はどこにもない。

とおもう。