「新しい歌舞伎座と歌舞伎の未来」
板東三津五郎さんの講演 その参
三津五郎さん、他にも実演つきで聞かせて、見せてくださいました。
丁重な語り口で、
歌舞伎への篤いおもいをお話してくださって。
・これまでも何度も「歌舞伎の危機」と言われながら乗り越えてきた。
今の歌舞伎にとって一番ピンチだと思うのは、
明治生まれの人がもういないということ。
明治生まれの人たちは江戸を色濃く残していた。
その明治の人たちと関わったのは、私たちの世代でもう最後。
江戸の風情や風俗について、演じる側にも
分からないことがこれからはどんどん出てくるだろう。
・歌舞伎は滅びはしないだろうが、
見方は変わるだろう。それをどう乗り切るか。
・歌舞伎は同じ演目ばかりやるというご批判もある。それは確かにそうだ。
その一方で、江戸時代にできた演目でいくらなんでも
今の時代には面白くないよというものもたくさんある。
復活狂言をやろうとしても
「やっぱり長年でてないわけだよね」と納得してしまうことが多い。
名作と言われるものは実はそうたくさんあるわけではない。
・江戸の風情や情感というのが、なかなか伝わりにくくなっている。
「なんともいえない風情だねえ」というのが、なかなか理解されない。
「踊りの見方がわからない」ともよく言われるが、
踊る人間は理解してもらおうと思っていない。
ただ、良い時間をすごしたねえと思っていただければそれで十分。
たとえば「牡丹の花のようだった」と言っていただければ充分。
踊りは、理屈で理解するものではない。
・たとえば勧進帳で必死になって弁慶が義経を打擲する芝居をしているとき、
目の前のお客さんが寝ていると「寝ないでよ!」と思うが、
踊りの時に目の前で寝られていてもあまり気にならない。
ああ、気持ちいいんだろうなと思う。それくらい違う。
踊りというのは、最高の音楽と踊りを同時に楽しむためのもの。
芝居で疲れた頭を休めるためのもの。
・自分は、芸のスタンダードとなるものをきちんとやって感動してもらいたい。
スタンダードのしっかりしたものと、
派手で話題性のあるものとが両輪でしっかり回れば、
歌舞伎は安泰だと思う。
・肉体の芸術なので、肉体は無尽蔵ではない。
この肉体が滅んだら、自分の芸は全部なくなってしまう。
ビデオは記録でしかない。
先代松緑は晩年、
「今なら完璧な弁慶(の内面)を演じる自信があるのに
身体が動かないんだよ」とおっしゃっていた。
・自分も25年ぶりに梅王丸をやったとき、昔の人は馬鹿じゃないかと思った。
なんでこんなに苦しい衣裳、馬鹿みたいに太い帯を何重にも巻かなきゃならないんだと。
体力的に本当に大変だが、25年前にやったことを身体が覚えているだけでなく、
その後の25年間に色々やってきたことやコツのようなものが身体に染み込んでいて、
25年前よりも息が切れなくなっていた。
今は肉体の衰えを経験が上回っている年齢だが、いつかそれが逆転する。
役者のいい時期は長いようで短い。
思うように身体が動かせるのは、あと10年か。
・自分の中には教えてくれた色々な人の知恵や思いがつまっている。
自分に教えてくれた人たちもそうだったのではないか。
ちゃんと伝えてくれよと先輩たちからバトンを預かっているのだと思うし、
さらに次の世代に伝えてくれそうな人に託さなくてはならない。
後輩を指導・注意するというのは、
その子を伸ばしたいからとか、先輩として威張りたいからではなく、
自分が先輩たちから預かったものを次に伝えたいから。
・歌舞伎の世界には不文律があり、
後輩が役を教わりにきたら断らないし、金品の礼は受けない。
ただ教えてもちゃんとできない人と、
ものすごくしっかりやってくれる人がいたら、
よりよくできる人に多くを伝える。
自分の子供かどうかは関係ない。
ちゃんと受け継いでくれる人に伝えるのでないと、労力の無駄だ。
・芸というのは苦しいばかり。
けれども少しでも「良くなったよ」と言ってもらえれば、続けられる。
・新しい歌舞伎座を、建物だけでなく、
その中の役者の芸も愛してください。
「歌舞伎役者のスケジュールが過酷なのではないか」という質問に、
「いまのスケジュールは50年前から続いているが
昔はもっとまとまって休みがとれた。
ほかの芝居は一カ月稽古する中で
歌舞伎が現状のままでは役者の健康維持だけでなく
演劇の質向上という意味でも厳しい。」
という認識を示していらっしゃいました。