前橋空襲のあとの焦土
<前橋空襲昭和20(1945)年8月5日
午後10時30分、市内4ヶ所に投下された
照明弾で空襲が開始され、
米B29爆撃機92機により
焼夷弾 691トン・破砕弾 17.6トンが投下され、
被災面積は全市の22%、
被災戸数は全市の55%、被災人口は全市の65%に及んだ>。
と記録にはあります。
ほぼ全市が焼き尽くされ、
「前橋駅から赤城山までまったくなにもなかった・・・」と
母や祖母から聞いています。
家も全焼、母たちは近くの水路につかり、
「どうにか、命は助かった・・・」
前橋には水路が縦横に走っています。
いまでは暗渠になっているものも。
<この5日の夜半から豪雨になり翌朝まで続いた。
空襲の大火災による気象の変化によるもの>
死者 535人(700名という記録も有る)。
空襲を免れたのは県庁の付近、
臨江閣、
萩原朔太郎の書斎、土蔵、座敷、
朔太郎の数々の詩稿など貴重なものが残りました。
デパート「麻屋」付近