堀本 吟さんによる
山本掌句集『月球儀』の評、
「海原」創刊号に掲載されました!
堀本吟さんは俳人、「豈」同人、現代俳句協会会員で、
俳句はもとより短詩型の評論されています。
たいそう細密でなんと明晰な鑑賞か。
力の籠もった稿を書いていただきました。
堀本吟さん、「海原」編集長からのご承諾を得てここに。
山本 掌句集『月球儀』
《月面の<存在(ザイン)>ー地上の「虚無」》
堀本 吟
たいへん興味深い句集である。
いまだにきらきらと印象が拡散している。
先ず書物として、意匠がただならず美しい。
伊豫田晃一の装画と題字、
司修の銅版画、萩原朔太郎撮影の写真。
表紙とその頁々に、一幅のタブローとしての存在感がある。
皆川博子と金子兜太の帯文がまたいい。
「好きです。選び抜かれた表現も、その身にあるものも」(帯文・皆川博子)
と、扉を開ける前から、胸がときめく。
「非常に奇妙な現実執着者(しゅうじゃくしゃ)、
/奇妙に意地悪い洞察者というか、
/どこかひねくれたと思えるほどにその美意識が常識とは違っている。
/ 混沌(カオス)をみとどけていこうとする作者である。」(帯文・金子兜太)
兜太のこれは、第二句集『朱夏の柩』の序文にある
別の句の鑑賞文の中から抄出されている。
山本掌にとっては、それは、
刊行を待たずに帰天した先師から贈られたもの。
彼女の文学的本質をこよなく突いたもの。
省略された文中、「現象の奥の現実に関心のある場合、
とかくシュールレアリスム、超現実の傾向をもちがちであるが、
山本はあくまでも現実に執している」とも書く。
(同句集、金子兜太の序。
現代俳句協会青年部フリーダム句集9。邑書林1995)。
今度の句集にあっても、この言葉は羅針盤である。
そこで、私は、本句集中の彼女の華麗な句群から
何を取り出すのか、ということとなる。
ともあれ、連作風の章立てや配列の関係をよそに、
私がメモした本文のための印象句を掲げよう。
①残る花ふっと臓器がゆらぐかな
②右手(めて)に虚無左手(ゆんで)に傷痕花ミモザ
③月球儀おそらく分母は蝶である
④〈存在(ザイン)〉とやなべて魂魄華やぎぬ
日常物に満ちているにもかかわらず、
ここは「地球儀」ではなく『月球儀』の上なのである。
数句十数句集めて月面の立体図を作る時の、
山本の構成は大胆かつ巧みである。
掲句③の系列と思える句。
若鮎の骨美しき宇宙塵
月球儀鮎の動悸のおくれけり
胎ゆらぎ黄蝶白蝶モルフォ蝶
など、五七五の定型感が心地よい。
だが、内容はすこし異様で、地球上のありふれた生命体が
同時に別の天体で生きているようだ。
人体も蝶がいっぱい詰まった妖しい宇宙である。
掲句③ではその蝶を「分母」にして月世界の細部まで、
蝶の分子が分布しているのだ。原点は地上にあるが、
同時存在する別世界があるのだ、と考えればいいのである。
では、このことを、掲句④「〈存在(ザイン)〉とやなべて魂魄華やぎぬ」の
「〈存在(ザイン)〉」の次元に重ねてみる。
この句は、母親を哀悼した《寒牡丹 ふたたび》の章にある。
しかし魂魄は母のみにではなく、すべてに備わっていて
「なべて華やぎぬ」である。
それが彼女の言う「〈存在(ザイン)〉」ということだ。
しかし、彼女のこの句のような共生感覚を、
地上的なアニミズムかと考えてみるとそれは少し違う。
兜太が喝破した山本掌の意識下の超現実とも違う。
私の観点を述べてみる。
それは、「〈存在(ザイン)〉」と表裏の関係にある「虚無」が
今回の精神的なそして表現のテーマであることだ。
むしろ現実離脱、死へ向かう心性の遍在を彼女は探っている。
例えば、掲句②では、
結句の真黄色の粒粒した花の添え方が絶妙であるが、
主となるものは季語の「花ミモザ」ではない。
「右手(めて)に虚無」にまつわるとらえがたいほどの広い思索の場、
もう一つの存在界の発見である。
そして「左手(ゆんで)の傷痕」の生の痛みの感覚。
ぼうぼうと虚無を喰みます麦の秋
大花野遠流のごとく虚無に棲む
青水無月あおき空洞(うろ)ですわたくしは
などなど。「麦秋」「花野」「青水無月」、
季語の語感と美しさを愛し、
けれどそこに込められている空虚さだけを摂り、
季節や生活の実感から抜け出している。
何もないゆえに華やぐ世界、
現実の奥にある虚無界の妙な手触りに執着している。
季語の本意を換骨奪胎するワザの巧みさ、
又この生死の世界のアンビバレントな措き方など、実在を、
言葉に転じてゆく試み、が私にはたいへん興味深い。
それは直接彼女の「〈存在(ザイン)〉」のスケールに重なる。
またその世界観から、掲句①のような「残る花」に感じて
「臓器がゆらぐ」(「こころ」がではなく)ような
特異な身体感覚も表現される。
冬の虹脳石灰化ぞうぞうと 《海馬より》
右の句は彼女の父親の看取りの章におかれている。
もう傷の痛みさえ実感できぬ老いの切なさ、
そのことも、きちんと、寒い「冬の虹」という
比喩のもとで見抜かれる。
実存と実体に及んでくる容赦ない死の掟。
しかも脳の死と入れかわり、倒錯のように、
あらたに魂魄が立ちあがる気配もある。
さて、ジャンルオーバーの発想と実践は、
地上に生きる山本掌のスタイルだ。
この句集の大きな読みどころでもある
句集巻頭の《朔太郎・ノスタルヂア》六句は、
詩人が撮影した写真に俳句を添えたもの。
翼たためる馬かいまみし葡萄の木 掌
(写真 朔太郎撮影「馬のいる林ー前橋郊外)
など、泰西神話を思わせる句によって、
モダニズムの時代をくぐった詩と俳の、
映像と言葉の交響である。
また、最後の章《俳句から詩へ》には、
三月の火喰獣(サラマンドル)を腑分けせよ 山本 掌
井を晒すくちびる死より青かりき 加藤かけい
人間に火をあたえた罪でプロメテウスが神から承けた罰を、
火の精霊火喰獣(サラマンドル)に返して「腑分けせよ」と。
詩の方では火喰獣(サラマンドル)からの反撃という構想。
加藤かけいの俳句からは、水の精オンディーヌ=オフィーリアの
死と恋の物語が再生する。
そこにも「虚無」と「傷痕」が措かれてある。
かように、生が抱え込む虚無界の(あるいは死が活きる)所在をみとめ、
その俳句的絵解きをしているのが、
山本掌句集『月球儀』なのである、と私は読む。(了)