矢島保治郎、ご存知ですか? 日本人初のチベット入り(中国ルート)した人物 | 「月球儀」&「芭蕉座」  俳句を書くメゾソプラノ山本 掌のブログ

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第四句集『月球儀』
「月球儀」俳句を支柱とした山本 掌の個人誌。

「芭蕉座」は芭蕉「おくのほそ道」を舞台作品とする
うた・語り・作曲・ピアノのユニット。
    



俳句を金子兜太に師事。「海程」同人・現代俳句協会会員。

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             チベット時代の矢島保治郎




矢島保治郎(やじまやすじろう)、

1882年(明治15年)8月23日 - 1963年(昭和38年)2月13日)は

日本の探検家、軍人。

四川省からのルートで初めてチベット入りした人物であり、

ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任した。


群馬・伊勢崎出身。前橋にて没。

チベットに日本人として長期の6年以上滞在。

チベットの貴族と結婚し、妻子を伴い帰国、

前橋に住む。

妻・ノブラーは29歳で没、

息子は太平洋戦争で戦死。


探検家、というかまさに冒険野郎。



以下はウキペディアより

◆最初のチベット入り

上海に到着した矢島は、東亜同文書院の根津一に面会した後、

南京-漢口-北京-鄭州-西安-漢中と旅を続け、

9月10日に成都へ到着する。


矢島はここで、約1年の間、打箭炉(ダルツェンド、現・康定)や

重慶との間を往復しながらチベットに入国するチャンスを探った。

というのも、当時のチベットは鎖国政策を取っており、

特に矢島の成都滞在当時は清との間が緊張状態にあったため、

この国境を超えるのは非常に困難だったからである。

矢島以前にも、能海寛や寺本婉雅がこの国境を抜けようとして失敗している。


1910年(明治43年)の秋になって矢島は、打箭炉で、

かつて西安に滞在していた時に出会った

ラマ僧イーヤンと偶然再会する。

イーヤンは茶をチベットへ輸送するキャラバンの一員として

ラサへ向かうところであった。

矢島はこのキャラバンの隊長と交渉し、

モンゴル人に変装して隊の一員に加わることに成功する。


こうして、1911年(明治44年)3月4日、矢島はラサに到着し、

河口慧海、成田安輝、寺本婉雅に次ぐ、

チベットに入国した4人目の日本人となった。

なお、それまでにチベット入りした3人は

いずれもインドからのルートで入国しており、

四川省から入った人間としては矢島が日本初ということになる。


ラサには1カ月ほど滞在したが、

日本人密入国者であることが発覚しそうになってきたため、

チベットを南下してシッキム王国

(現在のインド・シッキム州)を経由し、インドへと抜けた。

そしてカルカッタから船員として貨物船に乗り込み、

1912年(明治45年)3月、日本に一旦帰国する。


帰国した矢島は力行会を訪ね、

再度チベットに赴くための資金援助を希望する。

とはいえ力行会は会の存続自体が危ういほど資金に窮しており、

ここでその資金を引き受けたのは川島浪速であった。

川島は満州・モンゴルの独立運動を行なっていた人物であるが、

チベットも最終的には独立させたいと考えており、

その計画の一環として矢島へチベットの情報収集を依頼する。

こうして、川島から資金の提供と情報収集の命を受けた矢島は、

日本滞在わずか2日で再び船に乗りインドへ向かった。



◆2度目のチベット入り

インドに到着した矢島は、

インドとシッキムの国境近くの町カリンポンから

シッキムを経由してと、前年チベットを出国したルートの逆を

行くような形でチベットへ再入国した。


7月23日、ラサに着いた矢島は政府高官たちに接触し、

日本とチベットの提携を説いたが、

当時のチベットは親英路線が強く、これは成果をあまり上げなかった。

この頃チベットと清はラサで戦闘をしている最中であったが、

矢島はこれを直接目撃した唯一の日本人である。





◆雪山獅子旗

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1913年(大正2年)の正月には、

新年を祝うために日章旗を宿舎の屋根に掲げ、

これを役人に咎められるという事件が起きたが、

この事件はチベットにも国旗(雪山獅子旗)が

制定されるきっかけとなった。

この国旗をデザインしたのは矢島ともいわれている。


同年、ラサの地図を制作したことがきっかけで

チベット軍の参謀総長と知り合いになり、

軍事顧問として迎えられ、

兵舎の設計や部隊の教練も依頼された。

さらに、矢島の訓練した隊の演習成績が

良かったことがダライ・ラマの目にとまり、

近衛兵の編成と訓練を頼まれるようになる。


矢島は親衛隊長としてダライ・ラマが巡幸を行なうときは

近衛兵を率いて護衛にあたり、

また現地の豪商の一人娘と結婚して子供も産まれた。

ダライ・ラマからは絶大な信頼を得ていた。

矢島はノルブリンカ離宮内に住居を与えられていたのだが、

結婚した際には、離宮は女人禁制の聖域であったにもかかわらず、

特別に妻と共に生活することを許されるほどであった。


イギリスのインド政庁がダライ・ラマに矢島の追放を要請。

ダライ・ラマは形の上ではこれを拒否したものの、

チベットが親英路線にある現状。

矢島は1918年(大正7年)10月、

妻子を連れてラサを発ち、インドを経由して日本へ帰国した。


◆晩年

帰国後は故郷の群馬県前橋で生活したが、

妻は慣れない環境から1923年(大正12年)に病死し、

息子も後に太平洋戦争で戦死した。

矢島自身にとっても日本での生活はあまり本意なものではなく、

「痩せても枯れても俺はチベットの陸軍大将だぞ」が口癖で

あまり働きもしなかったことから、

一種の奇人として地元では扱われていた。


1963年(昭和38年)2月13日、老衰と肝硬変のため死去。80歳。