こんなかたちで、迎えることになるとは…。

3月11日14:45は、ポスト仕事中の出来事でした。
17時まで、普通に仕事してましたポスト

仕事終了後、仕事場である東京・日本橋から、自宅のある千葉県千葉市若葉区までの道のりは、果てしない道のりだったショック!

17:45日本橋から、東京駅にくつ徒歩で向かう。東京駅は、人、人、人…。

ヘルメットを被り非常袋を持った人、歩いて帰る為に地図を片手に意気込む人、タクシー・バスを待つ人、途方に暮れる人…。

ぼくは、成すすべなく、帰宅を諦め、東京駅近辺で過ごした。

初めは、丸の内北口のビル一階のロビーのブルーシートに座っていたが、20時には閉館の為に追い出された…しょぼん

その後、八重洲口地下街の階段で3時間ほど過ごし、緊急避難場所として解放されたと情報を得た、東京国際フォーラムに移動し、日付が変わったのだった。

23時過ぎに国際フォーラムに入り、椅子とテーブルを確保、24時半頃にテレビが搬入され、事の大きさに驚かされるのであった…。

寒さと、速報メールに、眠れないまま、朝を迎え、JRが動き出すという情報を確認し、7時前に、東京国際フォーラムをあとにした。

東京駅に着き、総武快速線地下に向かうと、今までに見たこともないような人の数に圧倒された…。ホームは人が溢れ、入りきれない人々の列が階段を抜け、上の階まで続き、列の間には、敷かれたビニールシートの上に、毛布に包まった人々が座り込んでいた。まるで、野戦病院のようだったあの衝撃は、忘れることはないだろう…。

東京駅の光景を目の当たりにし、足は自然と、新日本橋駅に向かっていた。歩いて10分ほど、約半日振りに仕事場付近に戻っていた。駅のホームに着くと、回送電車が1本止まっていた。時刻は、8時過ぎ、その後、その列車のドアが開き、東京駅まで運転を開始するとの放送が入り、『ヨシッ!』と思った。確実に、折り返し千葉行きになるはずだと、確信したからだ。

8:25、新日本橋駅をゆっくりと動き出し、8:30通常の倍の時間で東京駅到着。すると、なだれ込むように、人の波が押し寄せ、数秒であっという間に、超満員に…。角席に座っていたが、完全に押し潰されかけた状態。その後、8:45に発車のアナウンスも、実際に、走り出したのは、9:20。満員で静まる帰る車内、大声で身の上話をしたり、わめく回りの乗客にストレスを溜めつつ、10:40、何とか千葉駅に到着。

駅から自転車に乗り、自宅へ向かう。

ふと、そういえば、前日の昼(ゼリー飲料・野菜ジュース・パン)以来、丸一日、何一つ、食事も飲み物も口にしていないことに気づく。そして、帰宅途中の帰り道で、開いていた焼肉屋で、525円のランチを食し、今後の状況を考え、100円ショップで懐中電灯を購入し、帰宅したのは、12:15の事であった。

自宅に入り、部屋に入ると、テレビがひっくり返り、机の上の物が散乱し、足の踏み場のないくらいの状態が待っていた。一時は、一人、呆然としたが、気を取り直して片付けを始め、約1時間程で、何とかいつもの状態に仮ではあるが、持ち直した。その後、1時間程経ってから、横浜に出掛けていた母と妹も帰宅し、家族も揃い、安心した。


ホッとしたのと、疲れから少し横になるも、余震と速報メールに起こされた。


しかし、テレビで見る映像を見ていると、ぼくは幸せ者だと感じた。

まだまだ、同じ空の下、苦しんでいる人もいる。それでも、頑張っていこうと耐えている。これから、停電とかの制約で出てくるらしいが、ぼくは、ほぼいつものような生活が出来るだろう。が、それに甘えることなく、今、なにができるかを一人一人が考え、どんなに小さな事でもいいから、明るい未来の為に貢献をしていきたいと思う。




こんな長々と書き綴ってしまったけど、我々は、この日の事を忘れては行けないと思うんだ!だから、たまには、真面目に文章にしました。

以上