意識=思考

ではないかという考え(意識)がフッと浮かびました。

意識の裏には思考が存在しているということです。


思考とは考え方。

ものを見る目ともいえると思います。


思考の働いたときに意識が生まれる、そして意識があることを意識する。


無意識にやっていて、意識がないときがあります。


当人にとっては意識は存在していません。


本能や条件反射のような、プログラムのように働く無意識の意識もあると考えれれます。
このようなプログラムのもともとは思考であり、プログラム化されたゆえに普段は意識できませんが、そのうらに思考があることは確かです。


思考とは判断です。

判断したときに意識が生まれます。

判断は蓄積した記憶情報がなければできません。

記憶情報は、肉体に刻み込まれているものです。


とすると、肉体を持たなければ記憶も意識もないことになります。

肉体を持たない意識や魂は存在しません。

私たちの本質は、スピリチュアルリストたちが言っているような永遠に生き続ける意識体でも霊体でもありません。

私たちの本質は身体である肉体です。

生きるという言葉自体、肉体をもった生命が生きることを意味しています。

それ以外で使うことは比喩であり、ごまかしがあります。

いろんなことを感じることができるのは、あなたに肉体という受け継いだ資産があるからです。

言葉のレトリックに騙されることなく、現実を見つめることが大切だと思います。


スピリチュアルビジネスを展開している人たちは、釈迦やイエスを利用しますが、釈迦やイエスはビジネスなどしていません。

ビジネスにすることで、釈迦やイエスの教えにいろいろ付け加えて利用しているだけです。

釈迦やイエスが言っていることは、現実を良く見つめることだと思います。

そして、正しく考え正しく判断し正しく行動すること・・

真我や宇宙意・・そのたハッタリでスピリチュアルビジネスマンが使っている用語に振り回されないように注意しましょう。

もちろん源は一つですが、世界に存在するすべてのものは別のものです。
あなたは私です。というのは単なる比喩です。

普通に考えればわかることでしょう。

地球上の生態系は食物連鎖で成り立っています。

人間は食物連鎖の頂点にいるのであまり意識しませんが、下位の層では、弱肉強食が展開されています。それをカバーする生殖がなかったら、この体系は崩壊してしまいます。
これを維持するために本能があります。


あなたの親しい人も、ライバルも全て源は一つに違いありません。

源が一つならある意味仲間です。

あなたが嫌いなあの人も、源は同じ。

同じ源から出ているあいつが、自分に対して、敵対しているけど、それぞれ自由を与えれているのだからと考えると、あんまり気にしなくなると思います。

人間は、何とかなる、他人を変えられるという前提から思考していると苦しむのではないでしょうか。

全ての生き物が、それぞれの立場で、選択の自由を与えられている以上、思うようにならないのが当然です。

人間はいろんな能力をもっているのですが、誰かを頼ったり、うまく行かないのを環境のせいにいしている以上、力を発揮することはできません。

自分の力を信じたときに力を発揮できるのだと思います。


愚痴とは、他人や環境のせいにする行為で仏教の教えなどでは禁じていると思います。

愚痴を言わないことは正しい考え方です。
他人の悪口も、愚痴に近いでしょうか。


源は同じということから、本能的に仲間意識というものが重要視されます。

この仲間意識が心地よいです。・


宗教や、スピリチュアルセミナーなどは、どうもこの仲間意識をうまく利用してビジネスよやっているように思います。


仲間ができると心地良いし、その心地よさを、その教義を信仰したことによるものだと勘違いしてはまってゆくわけです。

たぶん、同じ目的を持った宗教以外のサークルでも同じフィーリングは味わえるのではないかと思います。


正しい思考ではなく、信仰を植えつけられてしまうと、思考停止の状態になり、物事を正しく判断できなくなります。


正しく考えるすべを知り、正しく判断し、正しく行動すれば事足りるのではないのではないでしょうか。