心と身体は密接に関連しています。
物理領域は五感を持った肉体で感じている領域です。
そして観念の領域は、内なる記憶を思考によって感じている領域です。
『存在』には二つの領域があると考えたらどうでしょう?
神の存在という問題があります。
もちろん、物理領域である物理空間には存在しません。
存在するとしたら、観念領域である観念の世界です。
私たちが物理空間に見出す法則も、観念の領域のものです。
法則は五感で感じることはできません。
たとえ神が宇宙を支配する法則であったとしても、それは観念の領域での存在です。
観念の世界の存在が人格を持つことはありません。
ゆえに人格神は存在しません。
観念上の『神』は一つの記号であり、言葉の一つです。
言葉は道具ですから、『神』という言葉に、如何様に意味を与えて語ることができます。
しかし、物理世界に存在する法則に法っていない思考は迷信です。
『信仰』とは『信じて仰ぐ』ことです。
信じることは、それ以上問題視しないで思考停止することです。
それ以上思考する必要ないのですから、シンプルで便利かもしれません。
そして、みんなで信号を渡るではありませんが、同じものを信仰すると強力です。
人間が宗教にはまるのも頷けます。
信仰心を道徳心と混同して、評価する面もありますが、正しい宗教は道徳心を教えているからです。
道徳とは、自分が他人からされたくないいことを他人にしない、自分が他人からされたいことを自分から他人にするということですから、成功哲学で語られていることと同じように思います。
でも、ほとんどの宗教が迷信を信仰させている場合が多いようです。
ほんとうの宗教があるとしたら、正しい判断ができることを教える宗教ではないでしょうか?
その宗教の教えによって、病気が治ると信じるのは危険です。
名医と良い薬を探すべきです。
成長進化するのが生命の法則です。
その中で生まれてきた医学や科学の副作用の面ばかりを見ていてはいけないと思います。
母と妹は病気で亡くなりました。
遺品に沢山の健康に関する宗教団体発行の新聞の切り抜きがありました。
妹は点滴も自分には合わないといって拒否していました。
現代医学を信じていなかったのだと思います。
ご供養という寄付の記録も実家を整理している時に見つけました。
生活水準から言って呆れるほどの額です。
姉も母が亡くなった時に遺産の中から100万円を寄付したそうです。
空いた口がふさがりません。
今回、妹が亡くなったことでマインドコントロールが完全に溶けたと姉は言っています。
妹が生きていたら、これから先、どれほどのお金を吸い取られたことかと思ってしまいました。
母も妹も幸福だったとは思えないのですが、本人たちは信心を貫くことで幸せだったのでしょうか?
ご供養という寄付のことを書きましたが、その他に、その団体で発行している書籍も本棚せましと買わされていました。
同じ本が何冊もあり、ノルマでもあったのでしょう。
姉が勿体ながりやなので、宗教関係の古本屋に問合わせましたが、この団体の本は宗教的な価値がないそうです。
調べてみたら、ひたちなか市の資源ゴミで出せそうですが、乗用車一台に詰め込んでもあまりそうです。
五キロまで無料だそうですが、五キロを超えたところから有料になるそうです。
宗教は麻薬と言われる意味が理解できます。
物事が上手くゆかないと、『信心が足りないから』と良いことがあると『信心の口説く』と母は、すべて信心の問題にして、それ以上のことは考えませんでした。
話し合いや、本当の問題解決にはならないと思います。
そんな中で育った私は、両親がどんなことを考えていたのかわかりません。
家族が本当に向き合うことに宗教は必要ではないような気がします。
道徳があれば宗教はいらないのでは?
記事タイトルとは離れてしまったようです。
神も仏も言葉のたんなる単語であり、観念の領域の存在であり、実在ではなく、思考という道具で扱われる概念の一つにすぎないと言うことです。
道徳と科学的思考が問題解決の本物の道具ではないでしょうか?