インターフェースとは、二つのものの間に立って、情報のやり取りを仲介するものだそうです。

コミュニケーションを取り持つものだ。

パソコンと人間であれば、お互いの持っている情報を交換するのに必要なもの・・・

パソコン側であれば、キーボードであり、モニター画面であり、スピーカー・・

人間側であれば目であり、耳であり、手の指であったり・・・


人間と人間の間にあるインターフェイスを『縁』とすると、『縁』とは元々つなぎ目として存在していて、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが相手などという境界はもともと存在していないのではないでしょうか。

そして個性さえも相互関係のあり方でしかないのではないでしょうか。

そして、その接点と考えられるところで、何かが起こっている。

物事は出会いによって起こっている。

接点において、刺激を交換することによって、そこに出来事が起こっている。

全てのものはつながっていて、自我も一つの幻想であり、私たちの一人ひとりは、一つのモノの中で起こっている、出来事の一つに過ぎない。

仏教で言う『縁起』はワンネス思想であり、自我が一つの幻影に過ぎないと理解することが悟りではないでしょうか。

自我という縄張りを作らないで思考すること瞑想ではないでしょうか?

スピリチュアルな仮想空間を作ることが瞑想ではないような気がします。