私たちは『今』に生きています。

そして、私たちには『今以前』があります。
つまり、記憶があります。

『今以前』は存在ではなく、たんなる記憶です。

過去は単なる記憶の集まりですから実在ではありません。
だから時間は存在するのではなく、概念であり、物差しのような道具です。

記憶には言葉にならない記憶もあると思います。

もし、言葉がなくても、記憶を思い出すことができるとすれば、それでも認識したという無意識の行為になります。


そうであるなら、言葉を持たない動物たちにも顕在意識があることになります。
いくつかの経験記憶を思い起こすのであれば、そえは思考と言えますから。


ただ、抽象観念は言葉が存在して始めてできる認識ですから人間にしか利用することができません。


人間は皮肉にも、言葉があることによって迷い、言葉の混乱を整理することによって、悟ります。


ところが、言葉をもたない動物たちは、もともと悟っています。


悟り悟りと騒いでいる人間はその点では動物たちに負けていますね。


人間の優れているところは、もちろん言葉という道具を操れるところ・・・


言葉に振り回されたりしなければ、未来に目標を持って、それを実現するという創造力を発揮しることができます。


私たちは言葉の概念を利用して未来を創造するわけですが、概念はそのための道具です。

概念は存在そのものではなく、データであり、道具です。


だから、いくらでも書き換えることができます。


言葉を使って、書き換えることによって『今ここ』の環境を変えてゆくことができます。



たぶん、動物たちにも、経験記憶を使って思考や判断はするのでしょう。
でも、創造的ではなく、刺激に対してほとんど反射的に反応して生きているのではないでしょうか。

人間は、言葉によって考える動物です。
だから徹底的に思考することによってしか悟ることができません。


雑念に影響されないで、純粋思考することが瞑想です。

しかし・・・

もし悟りに至る過程を瞑想というのであれば、言葉による思考を捨てて、動物のように生きる行為のほうも瞑想と言えるかもしえません。


動物たちはもともと悟りの状態ですから・・・


私は、言葉による思考をとります。
謎解きはおもしろいですからね。